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素朴な疑問
2902
:
犀角独歩
:2006/11/04(土) 14:28:11
2896 しゅんかんさん
一つ見落としていました。
> 『本尊問答抄』…「法華経の題目を以て本尊とすべし」
同抄は日蓮の真蹟(直筆、つまり真筆)を遺していません。
しかし、日興写本があることから、古来より真筆写本として扱われてきたというのが、まあ、通論と言うことになります。
要は、直弟子日興に完全に信頼を置いた‘解釈’ということでしょう。
しかし、わたしはこの点を疑っています。簡潔に言えば、日興が偽書を作ったとしても何の不思議もないからです。
日興の写本遺文には、他と内容がかけ離れているものがいくつかあり、この点は、以前、問答さんと議論したことがありました。
> …日蓮宗派全てにおける一致
これはどうでしょうか。大半は、同抄を真筆写本として扱うでしょうが、厳格に、採用しない方もあります。もっとも端的な例は米田淳雄師が発願編者である『平成新修日蓮聖人に文集』(日蓮宗連紹不軽庵)です。同抄は載っていません。
ちなみに、この書は、顧問に身延山短期大学学長/立正大学名誉教授:宮崎英修師・立正大学教授/日蓮教学研究所所長:浅井円道師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:高木豊師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:小松邦彰師、協力として立正大学講師/日蓮宗教学研究所所員:寺尾英智師・日蓮宗教学研究所所員:都守基一師(肩書きは平成6年10月13日初版第一刷発行当時)という錚々たる顔ぶれになっています。
なお、もし、この書が真筆写本であったと想定した管見は以下に記しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/614-
法華経の題目を本尊という発想は、わたしは実に奇異に感じますが、無仏の時代、題目をもって下種という教学的な態度から師、法を本尊と拝すれば、このような言い回しは、あるいは可能なのかもしれません。けれど、地涌菩薩のごとく、五百塵点成道の釈尊に直接下種をされ、妙法蓮華経の五字を所伝されたならば、その本尊は、久遠本仏・釈尊をおいてあるはずはありません。宝をもらったら、その宝らこそ大事で、くれた人はどうでもいいといった忘恩を日蓮が冒すはずがないからです。これではまるで禅・真言の所説に異なりません。くれた方を仰ぎ、宝を伝持する。本門の本尊と題目の五字は別です。
久種覚知の仁においては仏本尊を立てることは当然の流れです。日蓮は本門本尊とことわっているわけです。本門とはまさにこの久遠本仏成道と地涌結縁、法付属を説く段です。迹門立てで題目(妙法蓮華経裏一念三千珠)をいうならいざしらず、本門段で法を表に立てるのは論理として整合性がありません。
妙法蓮華経によって覚った諸仏と、地涌所伝の妙法蓮華経による我々は、その立場が違います。また、地涌菩薩に遇わない凡夫ともまた違うとも言えるでしょう。本仏との下種を覚知できず、今番地涌菩薩に遭えない者にとって、題目を本尊と仰ぐという脈絡は題目本尊という教学的な余地を残しているのかもしれないというのが上記の管見です。
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