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素朴な疑問
3334
:
犀角独歩
:2007/06/07(木) 21:35:26
マターリさん、こんばんは。
まず、ご指導などとおこがましいことはできません。これは前提として、ご理解ください。
こちらの過去ログをどれほど、お読みになりましたか。
わたしが、ずっと記してきたことは、この「本尊」についてもあります。
そもそも、「本尊」語は、天台の用法にはまったく見られません。
顕正居士さんとの議論では、真言密教の用語とのことでした。つまり、その影響が法華天台に及び定着し、日蓮も依用したということでしょう。
日蓮が本尊というのは、寿量仏、つまり、教相から考えれば、法華経から考えられる久遠五百塵点成道の釈迦牟尼仏、観心から考えれば「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」。そして、『本尊問答抄』が真筆であれば「法華経の題目」でしょう。漫荼羅を本尊というのは、もはや例外に属します。
そのことから、わたしは、漫荼羅を本尊であるとは考えていません。
ただし、日興は漫荼羅を本尊といっています。この日興の考えに、わたしは、消極的です。わたしの日興嫌いは、こんな側面にもあります。
もっともいえば、本尊を策定する日蓮の発想には、仏法・仏教という見地からは、やや賛成しかねます。漫荼羅は、密教の影響としての漫荼羅であり、日蓮は、これを弟子檀那の允可証として活用したというのが、わたしの見解です。
以上の次第ですから、仏道修行において、ことさら、本尊と唱題を絶対視する必要性をわたしは感じていません。ただし、それを活用することを否定するということでもありません。もっと言えば、仏道修行において、信を絶対必須条件などと考えることもありません。以上がわたしの見解です。
この次第から、では、マターリさんの質問を摺り合わせてみてください。
何が違っていると思われますか?
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