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素朴な疑問
3430
:
一字三礼
:2007/07/07(土) 22:01:39
犀角独歩さん
>わたしは日蓮が不軽菩薩を上げるのは、仏滅後の修行者という位置付けからだと考えていました。
どうでしょう、仏滅後の修行者というよりは、日蓮は、受難の法華行者という点で不軽菩薩と自身を重ね合わせたのではないでしょうか。
そしてそのことが日蓮にとって唯一の救いとなったのではないでしょうか。
正しく法華経を行じながらも、常に自身に降りかかる一向に救いこない受難。その受難に対して、大いなる意義と意味をもたせ、解決に導いてくれたのは、不軽菩薩の受難理由である‘其罪畢已’だった。
‘其罪畢已’に自らの疑念の解決をみたときに執筆したのが「開目抄」ではないでしょうか。
日蓮が不軽菩薩と自身を重ね合わせている真筆遺文をいくつか引いてみます。
「過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよみまいらせて候けるとみへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ。末法に入ては此日本国には当時は日蓮一人みへ候か。」(転重軽受法門 文永八年)
「今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用い給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼の大荘厳仏の末法の四比丘竝びに六百八十万億那由他の諸人が善事比丘一人をあだみしにも超へ、師子音王仏の末の勝意比丘の無量の弟子等が喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかほりしも、限りあれば此れにはよもすぎじとぞをぼへ候。」(神国王御書 文永十二)
「其後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、此には及ばじとをぼゆ。」(報恩抄 建治二年)
「此の法門は当世日本国に一人もしり(知)て候人なし。ただ日蓮一人計りにて候へば、此れを知て申さずは日蓮無間地獄に堕ちてうかぶご(期)なかるべし。譬へばむほんの物をしりながら国主へ申さぬとが(失)あり。申せばかたき雨のごとし風のごとし。むほんのもののごとし。海賊山賊のもののごとし。かたがたしのびがたき事也。例せば威音王仏の末の不軽菩薩の如し。歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし。天台のごとし。伝教のごとし。」(種種物御消息 弘安元年)
「其の上、日蓮は法華経誹謗の国に生まれて威音王仏の末法の不軽菩薩のごとし。はた又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。」(上野殿御返事 弘安二年)
「法華経は三世諸仏説法の儀式也。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品也。今の勧持品は未来の不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。」(寺泊御書)
いっぱい貼り付けたり、検索したりしているうちに、気がついたのですが。
覚徳比丘はほとんどの場合(経典から直接の引用と一ヶ所を除いて)、同じ受難の行者として不軽菩薩と並べて挙げられるのですね。
折伏を現ずるのが有徳王で、その有徳王の折伏によって救われる受難の行者が覚徳比丘でしたね。
真筆遺文からみる日蓮の主張は、受難の行者として覚徳比丘=不軽菩薩=日蓮というものです。
ここから考えても、‘不軽菩薩と日蓮は折伏’という主張は間違いですね。
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