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素朴な疑問

2952犀角独歩:2006/11/30(木) 16:37:10

問答さん

ようやくと確信に近づいてきました。

>> 日蓮の筆法…妙法蓮華経の五字…漫荼羅の意義を有する
> 曼荼羅の意義ではなくて、本尊の意義ではないですか。そう考えれば本尊問答抄とも符合しますね

そうとも言えますが、両方ではないでしょうか。
この点は、しかし、取り敢えず、置きます。

> 仏像群曼荼羅を含めて、曼荼羅を指している

重須、京方の文献からすれば、確かにそうなります。
先にも他スレで記しましたが、仏像では日蓮の漫荼羅は表せません。讃文の「二千二百三十余年」、咒とも思える経釈の書き込み、日蓮の御影は作れても、肝心の花押は仏像では表せません。しかし、問答抄の記述にあるとおり、仏滅年号は必須であり、また、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」という点からして、漫荼羅における書き判は極めて重要な意味を持ちます。しかし、これを仏像で表すことは出来ません。わたしは漫荼羅と仏像では、そもそも意義が違うと考えます。

> 三つの法門という縛り

この縛りを設けたのは、ほかでもない日蓮その人です。

> 「本門の教主釈尊」が仏か法か、と問えば誰でも「仏」と答えるでしょう。

ええ、ここです、核心は。

> 教主釈尊を法だとすれば、仏と法との区別はなくなってしまっている

そう思われるでしょうね。しかし、先に挙げたとおり、日蓮は本門の本尊=教主釈尊を秘法、正法、法門であると言っています。つまり、この点は動かせないわけです。問答さんのお言葉を借りれば、“縛り”ということです。

では、観心本尊とは如何なることでしょうか。己が心に観じる寿量本仏です。十法界における仏・法界です。つまり、己が心に観る十界各衆生とは法ではないですか。すなわち、心法です。一念三千法門です。

では、五百塵点成道の釈尊の御前におわす菩薩が、現前に拝謁する仏は、己心の仏界でしょうか。違います。これは本師、仏です。

妙法蓮華経の五字は一念三千(法)の珠を裏むというのが、日蓮の教説でした。

では、仏像に表す本師釈迦牟尼仏は、己心の釈尊でしょうか。
わたしは違うと思います。五百塵点劫に下種をしてくださった本仏、つまり、我が心法とは別ではないですか。この仏が上行に所伝した妙法蓮華経を認めたのが漫荼羅であれば、これは仏ではなく、法ではないでしょうか。しかし、仏像と示す過去五百塵点已来の下種の本主は、慥かに仏です。

つまり、漫荼羅と仏像と、共に本尊ということは出来ても、その意義は、かくのごとく違っていると、わたしは考えます。この程度の相違を、日興がわからないはずはなかったと、わたしは考えます。


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