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素朴な疑問
3044
:
犀角独歩
:2006/12/15(金) 00:10:25
問答さん
何度か申し上げたところと思いますが、最近の問答さんの論調は、挙証が曖昧です。引用されるところも、ご自身の考え … というより、富士方の学び … 文を取り違えていると、わたしには思えます。
話が、横に滑ってきていますが、ともかく、いまの議論は、日蓮は止観を軽視したということになってきています。この点はしかし、事実と違うとわたしは申し上げました。一つ、端的な証拠を挙げます。日蓮の晩年、弘安2年卯月、身延の山中での書です。
「我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(松野殿女房御返事)
以上のように記されています。これでも、日蓮は止観を軽視していたことになりますか。止観を簡んでいますか。
> 「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識
章安は当然、そのつもりでまとめたのでしょう。しかし、この行の部分を日蓮は唱題と改案したということでしょう。天台法華宗の人々は止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題を行じた差です。
> 止観と本尊抄を比較できる
この点の根拠は、たぶん引用された『富木入道殿御返事』(治病大小権実違目)の「一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。天地はるかに殊也こと也」に根拠を求めているのではないかと、想像します。
ここで、問答さんは理・一念三千は天台・止観、事一念三千は日蓮・本尊抄だというわけです。しかし、一念三千観法とはまさに止観なのであって、その相違は、前項に述べたとおり、行法にあります。止観は簡ばれるのではなく、唱題のための釈証となっているのでしょう。日蓮が終生、止観を講じ続けたことは、先に挙げた『松野殿女房御返事』からわかることです。また、先に問答さんが引用された「不見法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡 不知自具十界百界千如一念三千也」の一節からわかるとおり、日蓮は止観を明鏡として重視しています。(‘等’が本尊であるという挙証は畢えておられませんね)
問答さんは、止観か・本尊抄かという二者択一を考えているようですが、これは択一するものではなく止観によって本尊抄があるという関係です。まったく止観は簡ばれていません。
> 本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書
これも事実と相違していませんか。
本尊抄とは、観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。その証拠に、この書の中に「唱」「唱題」に類する説明はただの一カ所も出ていません。それとも、これまた、証なきところを言わざるを得ません。
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