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素朴な疑問
3151
:
犀角独歩
:2007/01/29(月) 23:07:34
れんさん、有り難うございます。
木像がないと辻褄が合わないでしょうね。
お二方のご指摘は目が覚める思いがしました。
善いですね、こういった思いこみを揺らがせるご批正というのは。脳が若返る気がします。と言っても黴びかけていますが(笑)
釈迦仏像(仏宝)・漫荼羅本尊(宝宝)・日蓮木像(僧宝)と揃うわけですね。
日興木像のことが、先の盗難記に出てきますが、こうなると、独学徒さんがおっしゃるような住持三宝の線が出てきます。この場合、どんな奉安であったのでしょうか。大漫荼羅を挟んで日蓮日興という、いまの石山客殿のような具合でしょうか。
独学徒さん
「住持」を辞典で引いてみてください。
青山さんが仰っていることはどうか知りませんが、わたしが記したことは一般的な語彙の意味です。
住持という言葉があり、次に住持三宝という語彙が生じ、ついで青山さんの解釈という時系列です。
「法に住し、法を護持する」とは、まさに住職(当住)の責務だと思います。
たとえば、住職以外に、日興の時でいえば、日順でも誰でもいいですが、「我こそは法に住し、法を護持する故に住持である」と主張したところで、何言っているんだという話になりませんか。住持は、住職以外では意味をなしません。
それでも、「住持」が富要上で、この語句の使用が見られないと言うことは、この信仰圏では意識されていなかったと言うことでしょう。それを、その信仰圏で用いられない語彙で解釈しても意味はないと思いますが。
日精の記述はともかくとして、一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。これはないとわたしは思います。故に日興は一尊四士像を祀っていたと思います。それをかき消したのは、その後継者ではないでしょうか。
いずれにしても日蓮・日興の段階で奉安を三宝を基本に考えるというのは、実状に沿わないと思いますが如何ですか。
だいたい、日蓮は一体仏のみでしたでしょう。四士をも副えず、御影もなし、漫荼羅も奉懸せず、日蓮の奉安は三宝具足であるはずはないと思いますが、この点はどうでしょうか。
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