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素朴な疑問
2968
:
犀角独歩
:2006/12/03(日) 09:45:30
―2967からつづく―
以上のように探っていくと、『本尊抄』『報恩抄』の文意における本尊は、単に本門本尊のみをあらわしているのではないことがわかります。
天台を迹面本裏、日蓮を本面迹裏と説明されます。天台は迹門を面(おもて)とし、本門を裏とした。日蓮は本門を表にし、迹門を裏にしたという意味です。
しかし、わたしは日蓮の法門、殊に本尊論は“本面観裏”、つまり、本門を面とし、観心を裏にするものなのだと考えます。
補完した『報恩抄』の該当の文で説明します。
「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となる」
┌本門:教主釈尊を本尊(色形の仏像:一尊四士)
└観心:宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士(心法を図す漫荼羅)
つまり、本門本尊は、観心本尊に裏打ちされる二重構造になっているということです。この観心を欠落して語られてきたのが、旧来の本尊論だったのではないでしょうか。
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