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素朴な疑問
3017
:
犀角独歩
:2006/12/11(月) 09:21:42
3014 問答名人さん
> >なぜ、本門本尊なのでしょうか。
> 観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。
これは違いますでしょう。何度も上げていますが、観心は法華経本門に説かれていません。故に「文の底」というのです。本門までは天台は証しましたが、観心は説いていない。故に『開目抄』に「龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」というのでしょう。
> 本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。
そうですね、本門です。ですから、なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか。これでは迹門は本門であるというようなものでしょう。説明になっていません。
> 確かに内容的には多岐にわたりますが…妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。
この答えで、よくわかることがあります。これは長らく問答さんの思惟傾向として、わたしが見てきた点です。何かといえば、この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。これはあたかも真言宗の法偏重のように映じます。妙法五字は「自然譲与」と言いながら、実際にその所持者である久遠釈尊、そして、使者として菩薩を明らかにしているのが『本尊抄』です。ところがこの仏菩薩が思惟からまったく欠落しています。故に妙法受持しか説かれていないように映じてしまうのではないでしょうか。しかし、これでは、仏法になりません。あるのは法だけです。
『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きませんが、しかし、その受持の要法を所伝された菩薩と、久遠下種の本主が釈尊であることを明確に論じることです。ここに仏(久遠釈尊)法(妙法蓮華経)僧(四菩薩)の三宝は整って論じられています。しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。ここから考えられる本尊は、やはり、法偏重となり、日蓮が本門の本尊は釈尊(脇士四菩薩)であるというも、妙法蓮華経五字のみとらわれて、仏菩薩を見落としているようにお見受けします。久種の覚知、その授受の道筋を忘却することは忘恩なのであって、これでは日蓮が言う仏法にはなりません。
> 「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。
ですから、それが観心です。
> …観心…前提…「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就…観心の前提…明鏡として、観心本尊
これはまったく牽強付会です。なぜならば、お書きになった文章のなかに、日蓮が何を明鏡と読呼んだのかが明らかであるからです。すなわち「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。
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