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素朴な疑問
3231
:
彰往考来
:2007/02/17(土) 08:19:04
弥四郎国重伝説
>3187 この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか
>3188 あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません
>3198 独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していた
堀日亨師は、『熱原法難史』(大正12年、雪山書房、170頁)に、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」と記しています。
いつもながら日亨師の文章は解かり難いのですが、「日弁(辨)師の俗姓は大石寺門流では不明であるが、他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の(後妻である)妙常日妙は日弁の姉で下野公日忍は日弁の弟、日頂日澄乙御前は日弁の甥と姪、天目も亦甥であるといっている」という意味です。ここでいう他門とは中山門流ではなく身延門流を指すと私は判断します。その根拠は享保15(1730)年に成立した身延山36世の六牙院日潮師の『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の記載(『本化別頭佛祖統記』昭和48年、本山本満寺、522頁)です。
堀日亨師は、『熱原法難史』238頁の「古史傳集録」にこの『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の個所を引用しています。そこには、
「日住禪門ハ日辨日忍兩師ノ父熱原氏甚四郎國重ナリ、駿州富士郡ニ農耕ヲ業ト爲ス、家世豪富頗ル才識アリ邑ノ小吏ト爲ル、又一女アリ天目ヲ産ム(以下略)」(引用者注:「熱原氏甚四郎國重」は“氏”が挿入されていますが原文ママ)とあります。「日住禪門」とは「熱原甚四郎國重」の法名ですが、堀日亨師は、『熱原法難史』175頁に、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原甚四郎國重法名法喜日住禪門當村ノ郷士ナリ時ノ名ハ熱原彌太郎宗祖ノ教化ヲ受ケテ歸伏ノ後藭四郎ト名ク」とあるのを取れるかとも思はる、併し三百年後の記録なれば信を措かれず法喜日住禪門の法號も疑わしいのである」と「熱原甚四郎國重」の法名が「日住禪門」というのは疑わしいとされていますが、日潮師の『本化別頭佛祖統記』が本照寺の明暦元(1655)年の古記などを参照したことは『本化別頭佛祖統記』成立年(1730年)から考えて十分有り得ることです。
独学徒さんがご紹介の興風叢書〔8〕の「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(平成16年、興風談所)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/
の「日辨」の項にも『本化別頭佛祖統記』と同じような内容が記載されています。本過去帳の成立年は未詳ですが、当該部分は「日通筆」(3頁)とのことで、日通師は(1702−1776年)ですから、本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
よって他門流にある弥四郎国重伝説は、『本化別頭佛祖統記』によるもので、その出所は本照寺の明暦元(1655)年の古記などであり、中山門流にそのような伝承があったとは考え難いということです。
by 彰往考来
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