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素朴な疑問
2933
:
犀角独歩
:2006/11/28(火) 17:23:43
問答名人さん
「以上です」といわれても、これでは議論は落着しません。
もう少しお付き合いいただけませんか。
まず、話が噛み合っていないと思います。
要は、わたしが漫荼羅正意と記したことに対して、漫荼羅も仏像も、一尊四士であるという意味なのでしょうか。しかし、議論は、その点を論じあっているのではなく、日興が仏像を奉安していたかどうかです。
どうも、仰ることがどうもよくわかりません。2920に
> 仏像造立を制止し曼荼羅を勧めています。日興上人が実際に仏像崇拝をしていたとは、僕は考えていません
漫荼羅正意ではなく、一尊四士が本意であるというのは、どのような意味なのでしょうか。
わたしは日興が仏像を立てていたであろう証拠として、一尊四士義と「仏聖人」という消息の一節を引いたわけです。また、これはしかし、“日興”についてです。なぜ、突然、日道の話になるのでしょうか。
わたしは日興は仏像として一尊四士義を有していたという立場です。
けれど、漫荼羅図示が一尊四士であるというのは、いったい、いかなる意味でしょうか。漫荼羅には四菩薩が記されているから一尊四士であるとは、論理の飛躍ではないですか。
「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」
のちの加筆と思われますが、日興の説としてされる、以上の一尊四士に見られる二カ所の成句、「隋身所持」「一仏」、これは両方とも、仏像を指してのことでしょう。
日蓮が終生所持したのは一体仏像である。それ故、一体仏で是とするものがあれば、それは甚だ非である。すべからく四菩薩像を加えるべきだ、というのが、その文意です。寿量仏釈尊の仏像は四菩薩の像を加えなければ、それを表現できないという、あくまで仏像奉安に関する話です。これが何故、漫荼羅に四菩薩が記されているから仏=一尊四士という話になってしまうのでしょうか。漫荼羅は一尊四士ではなく、敢えてそのような奉安に充てれば一塔二尊四士(中央首題、釈迦・多宝、四菩薩)ではありませんか。
引用される伝・日道の言とされるところは、実は生前、日蓮が一体仏を随身奉安した在り方を非難した形になっています。あろうことか日蓮を謗法であると断じています。師敵対、ここに極まるというほかありません。ここに至っては、石山を謗法の所行と断言しても憚りは要しません。
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