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素朴な疑問
2956
:
犀角独歩
:2006/12/01(金) 10:12:00
―2955からつづく―
漫荼羅は上行を介して妙法蓮華経という仏種を下すことでしょう。ここでは上行(日蓮)を能化とし、衆生を所化とします。しかし、一尊四士は久遠已来の師弟の関係、久遠下種を高々と謳い上げるところです。能化は釈尊であり、所化は上行等です。根元的、その意味が違っています。わたしが仏像に拘る理由はここにあります。漫荼羅は、久遠師弟、久遠下種を表に示していないからです。しかし、それは漫荼羅が不完全だからではなく、漫荼羅の前提に一尊四士の関係があるということです。ですから、漫荼羅と仏像、この両者は揃わなければ、日蓮の本意は完結しないということです。まず、これが一つです。
次に『御義口伝』の影響を色濃く受ける中世以降の富士方は、日蓮日興のあずかり知らないところを恰も、日蓮日興の教学であると思いこんでしまっているところが多々あります。「漫荼羅は仏である」という問答さんのご意見をお聞きし、わたしが直ちに想起したのは『秘密荘厳論』でした。
「自受用身者一念三千也。伝教云一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也云云」
『御義口伝』で引用される件です。この考えによれば、仏=漫荼羅という考えは容易く導かれます。しかし、わたしは日蓮にこの考えはなかった。また、日興の段階でも採用されていなかったと考えるわけです。それを端的に示すのが、実は『本尊問答抄』ではないでしょうか。これも一つです。
次に、石山方では日寛の五重相対の「種脱相対」にまるで誑かされてしまっています。このために、本門と観心の相対を見落としています。日蓮門下一般では、『開目抄』のそれを「教観相対」としますが、『本尊抄』では「迹門一分宣之不云本門与観心」というわけですね。
漫荼羅と仏像。この点を考えるうえで、問答さんもご指摘なさっていますが、実は、教観の相対、正確に言えば、本門と観心の本尊を、『本尊抄』において、巧みに説き分けているのにもかかわらず、富士方の門下教学に誑かされて、この点を見落としていることに、わたしは気づきました。これが、もう一つです。
たぶん、ここまで記せば、問答さんは、ご了解いただけるでしょう。
取り敢えず、ここまでとします。
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