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素朴な疑問
3638
:
犀角独歩
:2008/03/16(日) 08:39:21
マターリさん
顕正居士さんの含蓄に富むご投稿がありましたので、わたしが記すことはないのですが、お声掛けをいただいたので、少しだけ。
『法華経』を創作した人々は、わたしは在家で菩薩を志向した人々であったと思います。また僧侶が住まう僧院のような基地に依らない人々ではなかったかと考えています。
顕正居士さんが仰るとおり、法華六大部を通読する限り、智邈は自分の生きている時代を末法であると認識し、僧侶の立場から、安楽行・不軽行を摂受として、我が身に宛てていました。涅槃を綜合し、為政者が法華涅槃を法制として、一闡提の武力統制=涅槃/折伏=法華を肯定した二極論もあります。やや、この点で付言すれば、智邈の思惟では、一経は、摂折両論を具すというコンセプトを有しています。
顕正居士さんのお言葉を借用すればこの「聖戦」思想は、しかし、最澄の具足戒放棄は、ひいては殺人思想の肯定の現場となり、武装が当然のこととなってしまった。
日蓮は聖戦肯定の立場でしたが、王と僧の役割の相違を『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と述べたのでしょう。ところが日蓮以後の日蓮党は、軈て不軽・折伏論をいった後代解釈が僧侶の聖戦思想を鼓舞するようになった。こうした経緯を受けて、法華宗(天台宗)からの警鐘が『破日蓮義』のような形で為されていったのではないでしょうか。この時代の日蓮党は既に不軽・安楽・摂受といった本来の教学を読み違えていた人々であり、その系譜は本日に至るまで、日蓮党に胚胎し続け、いずこの時代も、信・不信の二極論から後者を攻撃することを正義であるといった倒錯が繰り返されています。愚かなことです。
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