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素朴な疑問
3510
:
犀角独歩
:2007/08/06(月) 08:18:10
史学的視点は、事実認識には大いに役立ちます。
さらに、それぞれの主立った活動場所としていたところなどの考慮も必要でしょうね。日蓮の真蹟遺文で、みれいさんが挙げた諸師たちを検索すると、以下のような結果となります。
法然…100回
栄西… 0回
親鸞… 0回
能忍… 0回
懐奘… 0回
道元… 0回
つまり、日蓮は法然以外は意識していないか、その存在も知らなかったかように思えます。また、「鎌倉時代」ということですが、これは武家が勝手に開いた幕府であり、このとき、京都は閉鎖していたというわけではないですね。教科書で習った歴史は、この点で信用できず、また、視点を鎌倉地域に絞ってしまう憾みがあります。
また、いまでこそ、鎌倉新仏教(新興宗教)の祖師と謳われるものの、生存当時、一天下にその名前が知れ渡っていたのかといえば、上述の日蓮の引用から見ても、どうやらそうでもないのでしょう。これは日蓮も同様で、ほとんど、流罪生活を送っていたわけですから、初登高座から逝去までの30年間で日蓮を知っていた人は、どれほどいたか、かなり少なかったのではないでしょうか。むしろ、その没後、徐々にその名が知れていったのだと思います。この点は日蓮に限らず、親鸞しかり、その他も同様ではないでしょうか。
また、武家に招来された禅僧は、パトロンたち(武士)の間では、有名であっても、では、庶民はといえば、禅を組み生活の余裕があるはずもなく、その名すら、聞くこともなかったのではないでしょうか。
なお「日蓮が折伏をした」という表現には異論があります。また、日蓮は京都という日本の本拠地で、その最高学府(比叡山)で学び、しかし、その権力構造に入らず(「入れず」が至当か?)、それでも、武家の暫定政権の地、鎌倉にやって来て、伝教の往古を仰ぐ、いわば天台原理主義のような活動を行った法華宗(天台宗)“天台僧”からの出発でした。また、日蓮の根本といわれる「本尊」もその現存は130舗ほど、実際にどれほど図示されたかはわかりませんが、それでも数百を超えることはなかったでしょう。となると、日蓮を知り、「なむめうほうれんぐゑきゃう」と口伝えに唱えた人々にとって、その本尊はないに等しい存在であったと類推されます。
情報通信で、もっとも早いのは、陸では馬、海では船、人の移動は徒歩、さらに身分制度の時代で、その身分ごとの生活内容は、他からはほとんどブラックボックスのような関係、また、武士といっても数人に1人しか識字能力がなく、渡来僧が、では、日本語に堪能であったかと言えば、そうは思えない等々、わたしたちが単純に考え「歴史」としてまとめられた‘物語’と事実は、大きく異なっているのだろうと思えます。
そんな実像を見る、第一歩として、みれいさんのまとめは足がかりになるでしょう。
> 当時の仏教と政治権力の親密
政教一致は中国からの一環で、神仏習合は聖徳太子?の時代から。
いまの仏教と政治の関係が、ここ2000年からみて劇的変貌ということでしょう。
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