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素朴な疑問
2963
:
犀角独歩
:2006/12/02(土) 10:50:31
> 日興上人が仏像を安置して拝んでいたかどうか
ええ、今回の議論はここから始まりました。
この点を考えるに当たり、わたしは言葉の用法を注意しなければならないと思います。日興の記述から事実を考えるとすると、日興の言葉の用法から考えるということです。これを現在、わたしどもが使用してきた石山や、正信会の解釈、誤用といった植え込まれた富士門ならでは先入観を払拭し、虚心坦懐に当時の文をそのままに読むということです。この際、日興の語法の経年変化も考慮されなければならないわけです。
ところが実際のところ、日興の著述というのは、ほとんど伝わらないのであって、伝説と仮託ばかりが目立つわけです。しかしながら、日蓮の薫陶を受けた日興が、日蓮の語法と極端に齟齬を来すことは少ないだろうと考えられます。ただし日蓮から時を経た教学信仰体系そのものの変遷として、語法の変容は当然予想されます。
問答さんとのかつての議論で申し上げましたが、日蓮が漫荼羅を直ちに本尊と呼称することを常としていたのか、わたしはいまもって慎重です。しかし、日興は『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』という如く、漫荼羅を本尊と呼んでいます。また、御影信仰の勃興もまた、たぶん、日蓮在世には遡れないことではないのか思えます(この点は一考を要しますが)が、日興はこれを受容しています。以上のような経年変容は考慮されなければなりません。
今回の議論は、以上の前提から推定されなければならないわけです。
ここのところの議論考証は、日蓮における“仏”の語法を考えたものでした。通読すればわかるとおり、日蓮が漫荼羅を仏と呼んだ用法はありません。となれば、日興もその準じたというのは、無理のない判断と思えます。
さらに経年変化を考慮する必要はあります。日興の確実な著述とされるのは「『三時弘経次第』と『安国論問答』の二書」、その思想を伝えると見なしてよいのは「『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。しかしこの両書は比較的日興の思想を伝えるものと思われる」というのが執行師の研究でした。これを考証してみる必要はあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_004.html
また、消息文は『日興上人』(継命新聞)に詳しく載りますが、正信会・興風談所における教学解釈は、日興正嫡、日蓮本仏という臭みがあるうえ、彫刻本尊の真偽も語れないお粗末なものです。古文書の識字能力は、教学力とは比例しない皮肉な見本となっているわけで、ここに載る解釈は依用に耐えません。
前置きが長くなりましたが、日興の「仏」という用法は、当の仏(如来)を指すものと仏像を指す範囲であって、漫荼羅=本尊=仏といった用法は、散見できません。用法が散見できない以上、ここにその実例を載せられないということになります。
日興が、漫荼羅を本尊と呼んだことは事実ですが、漫荼羅を仏と呼んだ証拠を、わたしは寡聞にして知りません。しかし、日興が御影信仰の人であったことは知られます。つまり、日興において崇敬される尊像画は、漫荼羅、仏像、御影の三種であったと考えられます。
では、その三種を、他にどのように呼び換えもしたか。漫荼羅は本尊、仏像は仏、もしくは本尊、御影は聖人といったところでしょうか。この語法から見るとき、消息文に見られる「仏聖人」とは、仏像と御影像であると考えられるというのが、わたしの見解です。
ただ、たぶん、ここで信頼できる資料として挙げられる『富士一跡門徒存知之事』、『五人所破抄』のおいて、仏像を造立を非難する記事が載るのに、日興が仏像を拝んでいたとは考えられないというのが、富士門下に刷り込まれた解釈だと思えます。しかし、ここでいわれる仏像批判というのは「一体仏」という限定を示しています。(この点は『御伝土代』も同様です)
しかしながら、門徒事追加八箇条には「日興が義を盗み取って四脇士を作り副ふ」といい、所破抄には「須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」というわけです。
日興の義と言いながら、実際のところ、日興が釈迦仏像に四菩薩を副えていなければ、このような言説は意味をなさないことになります。以上の点から考えても、日興は一尊四士像を奉安していていたのだろうと考えられます。
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