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素朴な疑問
3458
:
一字三礼
:2007/07/11(水) 22:45:08
身に命の危険が迫った時、はたして日蓮は、太刀を履いていたか、また、その太刀を護身のために使ったのでしょうか。
文永元年八月二十七日の松葉ヶ谷法難と呼ばれる、念仏者から襲撃された事件があります。
「念仏者竝びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。」(下山御消息 建治三年)
鎌倉の市内は、険しい山に囲まれた土地柄、襲撃されて助かった例はほとんどありません。
日蓮が、なぜ逃げることができたのかを考えた場合、予め逃走路を用意していたか、山道を熟知した者の助けがあったか、そのどちらかしか考えつきません。
少なくとも、日蓮が太刀を振るって応戦していたら、たとえ敵が数十人であったとしても、衆寡敵せず、瞬く間に討ち取られていたのではないでしょうか。
もう一つは、同じく文永元年十一月十一日の小松原法難があります。
「今年も十一月十一日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあうものはわずかに三四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自信もきられ、うたれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。」(南条兵衛七郎殿御書 文永元)
伝承では、相手の太刀を数珠で受けたとされており、その数珠が正中山法華経寺に残っています。この時、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆は従者と共に切り死にしたとされております。
数珠で太刀を防いだことが事実ではなくても、太刀を抜いて応戦していれば、やはり容易く討ち取られる状況ではないでしょうか。
この時も日蓮は、ただその場から逃れた、としか考えられません。
もうひとつ、五郎入道正宗以前の太刀は、実践向きではありませんでした。
元寇の時に、日本軍の太刀が蒙古軍の鎧を貫けずに、折れることが頻繁に起こったそうです。(実戦で、鎧を着けた相手に対して、刀は切るよりも突く武器であった)
いわゆる、古刀の「猪首切先、腰反りが高く、柄元に踏ん張りがある」太刀姿は、鑑賞する分には非常に美しいのですが、実践向きではなかった。
正宗は、実戦向きに「猪首切先」を止めて、切先を長くして刺さりやすいと形状にし、反りを少なくし、柄元から三つ頭までの刃幅をほとんど同じにして、厚重ねの太刀を打ちました。
正宗以前の刀は、護身用は護身用でも、悪霊や病から身を守るためのものでした。
籐四郎吉光や、正宗の師匠と言われる新籐五国光らは、短刀の名手であり、彼らの打つ刀には、魔除けを刻んだものもあります。
顕正居士さん
>日蓮の反感は戒律の復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。
日蓮は、「末法無戒」と称しながらも、自身は「南山律」を守っていた。ということは、以前、顕正居士さんがご指摘されていたことでしたね。
それなのに、何故、戒律の復興を志す僧を嫌ったのでしょうか。
南条文雄といえば、昭和2年まで生きていた方ですね。
そんな近代に僧兵の経験がある人がいるとは驚きました。
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