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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

483避難民のマジレスさん:2022/08/04(木) 00:58:16 ID:5jZWvCyU0
(つづき)  p254-256
  また、以下の理由からも認識根拠が附託に基づくというので、[師シャンカラは]認識主体であることが存在しなければ、認識根拠が機能することはないと言っているのである。実に、認識主体とは、[認識の]結果である正しい認識から自立した存在なのである157。そして、正しい認識は、[内官が]認識対象に向った[時に生ずる]内官の変容の一種(parināmabheda)158であって、[認識]行為の主体に存在し、かつ、純粋精神を[その]本質としているのである。従って、もしそれ(内官)に純粋精神アートマンが附託されていなかったら、どうして物質的な内官の変容が、純粋精神を[その] 本質としたりしようか159。また、もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託 されていなかったら、どうしてこれ(内官の変容)が、純粋精神アートマンを[認識]行為の主体として有しようか160。それ故、正しい認識という結果一[それは]純粋精神アートマンという[認識]行為の主体に存在する一は、相互附託に基づいて成 り立っているのである。そして、これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]、認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能するのであ る161。従って[『註解・本文中の]認識主体であること[という語]は、正しい認識を暗に意味しているのである162。[つまり]、「結果である正しい認識が存在しなければ、認識根拠が機能することはなく、その結果、認識根拠が正しい認識根拠でなくなってしまうだろう」というのが[『註解』本文の]意味なのである。[それ故、師シャンカラ は]従って、直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているのである。

脚注
159内官は物質的なものであるから、純粋精神アートマンが附託されていなければ、精神的活動である認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
160 逆に、純綿神アートマンには、活動がないから、活動を備えた内官が附託されていなければ、認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
161「これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]。という箇所は、本訳251頁20-21行の「認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、無明に基づくことは ないのである」という反対主張に対する答論であり、「認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能す るのである」という箇所は、本訳251頁19-20行の「正しい認識すなわち明知とは、実に、真理を確定 することであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりし ようか」という反対主張に対する答論である。すなわち、反対主張においては、「正しい認識は、無明と相入れないから、その手段である認識根拠が無明に基づくことはない。とさ れているわけだが、それに対して、「正しい認識が成り立っている時には、その認識主体が存在しており、 その認識主体自体がアートマンと内官との相互附託(=無明)に基づいているわけだから、正しい認識で すら無明に基づいており、その正しい認識に対して機能する認識根拠も当然無明に基づいている」と答え ているのである。
162認識根拠を統御する認識主体の必要性についてはすでに説明済(本訳252頁4行以下参照)なので、 ここで更に同じ説明を繰り返す必要はない。従って、Bhāmatīはここで、認識主体であることという『註解』本文の語を「正しい認識」の意味に取り、この箇所の論議を「正しい認識自体が精神性と物質性のいり混ったものだから、純粋精神であるアートマンと物質的な内官等の相互附託を前提としている」と解すのである。
163「当面」を、附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ


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