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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
665
:
避難民のマジレスさん
:2022/10/26(水) 00:28:22 ID:HJ/1Z6FU0
(つづき) p366-367
ところが、[ウパニシャッドが]実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、(1)実現しなければならないもの、すなわち新得力(aparva)527は、[ウパニシャッド]以外の認識根拠の対象ではないし、(2)[新得力のように]これまでまった く経験したことのないものは、その本来の姿でにしろ附託された姿でにしろ、人間の意識にのぼることはないので、それ(実現しなければならないもの、すなわち新得力)を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は、作ることができなくなり、その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるから、[自ら以外のものに]基づかず、従って認識根拠である、と確定されるのである。このようなわけでわれわれ は、[ウパニシャッドが]認識根拠であること[を守る]ために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているの である。
[答論]ああ、あなたは長生きするよ。[ではお尋ねするが]、この[あなたが]言わんとしている実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのか。
[反対主張][目に見えない果報]新得力のことである。
[答論]ああなんということを。これ(新得力)がどうして[命令等を示す接尾辞である]liń等の意味となれるのか。というのは、(1)[人間の]経験を超えたそれ(新 得力)が、[接尾辞liń等と]関係するという認識は、存在しないからであり、(2)ま た、通常[の言葉の用法]に従えば、接尾辞liń等からは、経験される行為が実現(遂行)しなけれぱならないものだと理解されるからである。
[反対主張]「天界を望む者は供犠を行うべきである」という[儀軌]からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解され、さらにその者は、天界に[達するのに]適したことが実現(遂行)しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのである。また、瞬時に減する行為は、来世に属す天界[を得るの]には適しないので、必然的にヴェーダにのみ基づいて、「liń等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係しているのだ」理解される のである528。
脚注
527 新得力については、脚注243参照のこと。
528「天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌の場合、(行うべきである)が、これは「実現しなければならないもの(行わなければならないもの)」 を表示している。この「実現しなければならないもの」は、ヴェーダ聖典以外の通常の文章の場合には、聖典以外の認識根拠によって知ることのできる行為(「たとえば、牛を連れて来い」という文章の場合には、連れて来るという行為はすでにとこかで経験されている行為である)である。だが、ヴェーダ聖典の儀軌の場合には、この「実現しなければならないもの」は、祭式というような行為ではない。何故 なら、祭式という行為は瞬時に滅するので、死後に獲得される天界に達するのに適していないからであ孔る。従って、祭式の執行ののち天界を獲得するまで存続するものが天界に達するのに適したものとして必要とされ、これこそが「実現しなければならないもの」であることになるが、それが新得力なのである。このように命令の意味を表す接尾辞は新得力を表示しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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