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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

692避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 00:34:21 ID:fXYFUQkc0
(つづき)   p384-385
   [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

  以上の一部の[先師たちの]見解を、[師シャンカラは次のように]批判している。 これ(以上の反対主張)に対して答えて言うと。一部の[先師たちの]見解は[正しく]ない。何故か。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからで ある。すなわち、善業と悪業の果報は[それぞれ]楽しみと苦しみである。このうち楽 しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、[その]程度がますます高まってゆく。同じように苦しみにも、人間の世界から[地獄の]アーヴィーチィ界に至るまで程度に差がある。そしてこれら(楽しみと苦しみ)すべては、生み出されたものであって滅してゆくものである。一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非 身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではない。実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのである。
  その趣旨は以下の通りである。すなわち、ウパニシャッドの諸聖典句が念想を命ずる儀軌に従属していると認めているあなた[反対主張者]ですら、個人存在の本質が本来的にブラフマンーー[それは]永遠で清浄で悟っている等を本質としているーーであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めている。だがそれ(個人存在の本質がブラフマンであるということ)は、念想を対象とする儀軌の果報ではない。何故なら、[個人存在の本質がブラフマンであるということは]常にそうなので、[儀斬の命ずる念想によって]生み出されるようなものではないからである。また、無始の無明という覆いを取り除くことが[儀軌の果報であるということ]もない。何故なら、それ(無明の覆いを取り除くこと)は、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからである。また、明知が生ずることが[儀軌の果報であるということ] もない。というのは、それ(明知が生ずること)は、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからである583。

脚注
580 581 582
583この点に関しては、本訳284貢参照
(´・(ェ)・`)つ


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