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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

507避難民のマジレスさん:2022/08/16(火) 00:23:27 ID:tUSbF34A0
2.スートラの語義解釈(I) 「そこで」の語義
p270-271 137左/229

  この[スートラの]中で、「そこで」(atha)203という語は「直後」(ānantarya) という意味に解すべきであって、「新しい論題の導入」(adhikāra)という意味に[解すぺきでは]ない。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるべきものではないからである204。 また[この語は、「吉祥」(mańgala)205の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意 味]は[スートラの]文意に合わないからである。何故なら、「そこで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられても、[その語を]聞くだけで、吉祥の 効果があるからなのである。さらに[この語は、「前に主題とされた事柄への 言及」(pūrvaprakrtāpeksa)の意味に解すぺきでもない]。とういうのは、 「前に主題とされた事柄への言及」とは結局[前に主題とされた事柄の]「直後」にほがならないがらである206。

脚注
203「そこで(atha)」という語に「直後」「開始」「吉祥」等の意味がある。
204 Brahmajijñāsāのjijñāsāという語は、「知りたいという欲求jñānecchā)」か「考察(vicāre)」の 意味がのどちらかだが、前者だとすると、考察が新しい論題ごとに開始されることはあっても、知りたいという欲求が新しい論題ごととに開始されることはないから、理に合わない。一方、後者の場合だと、「開 始すべきである」という語を最後に補わなけれぱならないことになるが、athaという語に「新しい論題の導入(すなわち開始)」という意味があるのが余計になる。従って、athaは「新しい論題の導入」とい う意味ではない。
205mańgalaとは、著作を著すに際して、著作が無事完成することを祈って、自己の帰依する神や師等に対して捧げる詩句のことであるが、この『ブラフマ・スートラ』にはそのような詩句がみあたらないので、スートラの最初の語athaにこのmańgalaの意味があるのではないかとする議論である。
206この一節の意味は、諸註釈も諸訳もまちまちではっきりしないが、ここではBhāmatīに従った。

2.1.「そこで」の語義(1)ー「直後」という意味である

  このようにスートラの趣旨を説明したのちに、[師シャンカラは]、その(スートラ の)最初の語「そこで」を、[次のように]説明している。この[スートラの]中で、「そこで」という語は「直後」という意味に解すべきであると。[すなわち]スートラ中 の諸語の中で、この「そこで」という語は「直後」という意味である、というのが文脈 なのである。
(´・(ェ)・`)つ


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