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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

417避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 00:05:54 ID:Wv7DDlhM0
1.5.『註解』冒頭文後半部の語句説明   p213- 215 108右/229

  にもかかわらず、[それぞれ互いに]完全に異なる[主観と客観の]諸属性および[その諸属性の]基体[である主観と客観と]を互いに識別しないで ([文字通りには]互いの無識別によって)、主観に客観の本質と諸属性を、客 観に主観の本質と諸属性を附託し(adhyasya)([文字通りには]それぞれにそれぞれの本質とそれぞれの諸属性を附託して)、真実と虚妄とを混淆して (mithunikrtya)、「これが私である」「これは私のものである」[と言う。これ が]([文字通りには]というのが)誤った認識に基づく、生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)である。

  さて、以上順を追って述べてきたことから、「私」という観念は腐ったかぼちゃ[のよ うに価値のないもの]であることが明らかとなった。そこで、今や、神聖な天啓聖典は、「私」という経験から生じた[誤った考え]、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であり・楽しみ・苦しみ・悲しみ等をその本質としている[という考え]を、なにはばかることなく否定することができるのである。このように、「私」という観念が 誤りであることは、信頼に価するすべての天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等ですでに良く知られていることである。だから[『註解』は]、それぞれに以下で49、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 ここ(本文中)では、それぞれに、すなわち、[二つの]基体つまりアートマンと身体等に、それぞれの本質を附託して・・これすなわち身体等が、私である。と[というのが文脈である]。「これが[私である]」というのは、[人々がそうとは知らないで身体とアートマンを同一視しているという]事実に基づいて[述べて]いるのであり、 [「これすなわち身体が、私である」と人々が現実に]認識しているからではない50。世俗的な日常的表現(経験)(vyavahāra)とは、世間の人々の日常的表現のことである。 すなわち、それは「これが私である」という表現のことである。[「これが私である」 というのが]のというのが(iti)が暗に意味しているのは、認識対象全体を、正しい 認識根拠に基づいて、身体等に有益なものと有害なものとに識別し、それ(有益なもの)を受け入れ、それ(有害なもの)を排除すること等[の日常的経験]である51。それぞれの基体にそれぞれの諸属性を附託し。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンに[さらに]附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでににアートマンの附託されている身体等 に[さらに]附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人である[といった所有物および属性]が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)すなわち表現である[というのが文脈である]。[「これが私のものである」というのがの]というのが(iti)が暗に意味しているのは、それ(「これは私のものである」という表現) にふさわしい活動等である。

脚注
49『註解』の本文後半部は、実際には、にもかかわらず、それぞれに...という形で始まっている。
50実際には、「私は身体である」と考える人はいない。しかし、「私」という観念自体が、アートマンと アートマン(身体等)との相互附託を前提として成立しているという意味である。
51 『註解』では、日常的表現も日常的経験も意味する語であるが、ヴァーチャスパティ・ミシュラはこの語を表現の意味に取ったので、このというのが(iti)に経験(活動)の意味を含み込ませているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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