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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 00:24:25 ID:z.9F0lN20
答えたのじゃ。
 祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるから、それらの主張は間違いだというのじゃ。
 天啓聖典と聖伝書から知られる身体的、言語的、心的行為がダルマと呼ばれ、ダルマを対象とする考究が、「さて、この故にダルマの考究が [開始されるべきである]」と、スートラに述べられていたのじゃ。
 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、捨て去るために考究の対象となるのじゃ。

 これらダルマと非ダ ルマの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られているのじゃ。
 また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いているのじゃ。
 そうであるからその楽しみの原因であるダルマにも、程度の差があると理解されるじゃろう。
 さらに、ダルマに程度の差があれば、ダルマを遂行する資格をもつ人にも程度の差があることになるのじゃ。
 そして、ダルマを遂行する資格をもつ人の程度の差が、欲求や能力によることは周知の事実であるのじゃ。

 同様に人間から地獄や草木に至るまで、わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、程度に差があると理解されるじゃろう。
 また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その苦しみの原因である非ダルマとその遂行者にも、程度の差があると理解されるのじゃ。
 このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのじゃ。

 同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」と、先に述べた輪廻の性質に再び言及しているのじゃ。
 次に「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であることは否定されているのじゃ。
 解脱すなわち身体のない状態がダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからなのじゃ。


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