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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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避難民のマジレスさん
:2021/02/13(土) 21:06:03 ID:Dp/qMVVc0
学習と智慧の区別を理解してもらえただろうか。それを理解することは必要不可欠だ。誤った知は、無知よりも自己実現の道でさらに大きな障害となる。誤った知とは、あなたが本当には知らないときに 「私は知っている 」という印象だ。このような誤った印象は、学習や学校教育による他者の考えから簡単に成長し得る。その誤った印象は、聖典の知識、言葉の知識からも生じる。そして、このような言葉の知識のために、人は自分が真理を悟ったと思っているようだ。
言葉は記憶の一部となる。言葉は質問の形になり、それぞれの質問には自動的に答えが返ってくる。人の区別の感覚は、借用された考えの中で失われ、支配される。そして人が自分の中から答えを探す前に、借用された言葉と考えの厚い層により、既成の答えが飛び出してくる。このようにして、私たちは問題を解決することができず、その答えを奪われている。もし問題が自分のものならば、それは自分の答えだけが必要とされる。借り物や中古の答えは何の役にも立たない。
人は生を借りることも、問題の答えを借りることもできない。問題の答えは外から来るものではない。それは問題の中に内在しているのだ。答えは問題の中から発展する。もし問題が内にあるならば、真理は外にはありえない。そして、真理はそれゆえに学ぶことができない。それはむき出しにされなければならない。あなたはそれを発見しなければならない。真理は訓練によってではなく、実現によってのみ知ることができる。そしてこれが、聖典を学んだ者と、魂を実現した者との根本的な違いだ。この世界では、聖典に精通していれば十分だが、霊の領域ではそうではない。聖典に精通している範囲にいるならば、それは出発点よりもはるかに劣っている。
―
思考している自分が常に起こるから、思考も自我を養うのでしたら、思考の他にも感情や感覚、意志など、自我が投射されるものは全て自我を養うと言えるのでしょうか?
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