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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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:
避難民のマジレスさん
:2021/02/11(木) 20:56:52 ID:Dp/qMVVc0
視力のない人はその時何ができるのだろうか? 私はその人に言いたい、「光のことは考えないで、目を治療しなさい」と。 考えることではなく、治療をすることが助けになるのだ。しかし、私は何を見るだろうか? その人が説教されているのを見て、光の哲学を説明されているのを見る。しかし、誰も目の治療には関心がない。
そして、より驚くべきことは、光を主題として説教している人たちは、自分自身が光を見たことがないということだ!その人たちも光については知っているが、光を知らないのだ。私がこう言うのは、もしその人たちが光を知っていたならば、説教の無益さに気づき、失明の治療に関心と同情を集中させただろうからだ。視力が治れば、光は自動的に経験される。視覚に必要なものは常に存在している。視覚があるならば、光がある。
「視覚」と「光」は、全く異なる方向に導く言葉だ。光を考えることは哲学につながる。それは、考えることだけに向かう方向性だ。それは経験にはつながらず、単なる思考にすぎない。たくさんの歩みがあるが、目的地にたどり着くことはない。結論はたくさんあるが、私たちの問題を解決できるものはない。これは当然のことだ。水についての最も完璧な考えでも、喉の渇きを少しも癒すことはできない。喉の渇きを癒す方法は全く異なる。
道、修行はものの考え方ではなく、視覚の治療だ。私は光について考えることが哲学であると言ったが、今、視覚によって洞察することが宗教であると言いたい。考えることで知的な結論に達することができるが、一方で修行は霊的な洞察、霊的な経験を与えてくれる。前者は水について考えるようなもので、後者は喉の渇きを癒すようなものだ。前者は問題であり、後者は解決策だ。
―
自我が自由を妨げているので厭離したいという思いと、自我を失くしたくないという思いの、両方で引っ張られている感覚です。そのような思いと感覚も気をつけて観察します。
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