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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
595
:
避難民のマジレスさん
:2022/09/25(日) 00:38:06 ID:Q2tDKdEM0
7.2.ブラフマンの存在がすでに良く知られていてもブラフマンの 考究には意義がある p324-325 164左/229
[反対主張]しかしもし、ブラフマンがアートマンとして世間で良く知られているとすると、[ブラフマンは]すでに知られているわけだがら、考究の対象ではないということに再びなってしまうであろう。
[答論]そうではない。それ(アートマン)の特性387に関して見解の対立があるからである。すなわち、普通の人たち388および唯物論者たちは、精神性をそなえた単なる身体がアートマンであると信じている。別の者は、精神的存在である諸感覚器官こそがアートマンであると[信じている]。他の者は、思 考器官が(アートマンであると考えている)389。ある者は、瞬時に滅する識 が[アートマンだと思っている]390。また別の者は、空が[アートマンである]と[考えている]391。別の者は、身体とは異なる輪廻者、行為主体、経験主体が[アートマンで]ある[と信じている]392。ある者は、経験主体だけが[アートマンであって]、行為主体はそうではない[と考えている]393。またある者は、それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると [信じている]394。また別の者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]395。このように多く対立する見解があり、[それらはそれぞれ]論証や聖典句および似非論証や似非聖典句に基づいているのである。 従って、もしそれらを考察することなしに、なんらかの見解を受け入れれば、 その人は、至福からはずれて悪に赴くことになろう。たがら、[このスートラ で]ブラフマンの考究に着手するのを手始めとして、ウパニシャッド諸聖典句 の考察が、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)と矛盾しない論理に助けられ、 至福を目的として、開始されているのである。
反対主張者は、[ブラフマン=アートマンは良く知られているという]第一の見解に存する欠陥を、[次のように]述べている。しかしもし、[ブラフマンがアートマンとして]世間で云々と。[ここで]世間というのは、師と弟子の継承のことである396。この 場合もし、「汝はそれなり」という聖典句から、ブラフマンがアートマンとして良く知 られているとすると、〔ブラフマンは]すでに良く知られているわけだから、[考究の対象でないということに再びなってしまうであろう]397。[また、「汝はそれなり」とい う聖典句は]アートマンがブラフマンであることを述べているとすべきところを、プ ラフマンがアートマンとして[良く知られている]となっているのは、[ブラフマンと アートマンが]異ならないことを述べようとしているのだと理解すべきである398。
脚注
387 以下対立する見解を列挙する順序は、粗大なものから微細なものへという順序になっている 。
388「普通の人たち」とは聖典の知識が欠けている人たちのことである。
389 以上の三種の見解は唯物論者のなかでの見解の対立である。
390 唯識論者の見解である。
391 中観論者の見解である。
392Nāya学派等の見解である。
393Sāmkya学派の見解である。
394Yoga学派の見解である。
395Vefānta学派の見解である。
396 馬鹿な人たちも世間の人であり、彼等は、「汝はそれなり」という聖典の文章を学習していないので、「汝はそれなり」という聖典の文章から、ブラフマンがアートマンであることを理解できないはずである。 従ってここでは、世間という語を、師と弟子の継承という意味に解すべきである。
397
398「汝はそれなり」という聖典の文章は、「汝」という語の指し示すアートマンが「それ」という語の指し示すブラフマンであることを述べているのであるが、ブラフマンがアートマンであることを述べていると『註解』本文がしているのは、アートマンとブラフマンとが異ならないことをも一緒に述べようとしているからである。
(´・(ェ)・`)つ
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