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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

400避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 23:33:02 ID:bd.fxOME0
(つづき)   206-207
   [反対主張に対する反論][主観であるアートマンと客観である統覚機能等という]基体[どうし]を互いに入れ換える(相互に附託しあう)ことはないだろう。しかし、 そ[の基体]の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことはありうるのではないか。というのは、[よく]経験されるように、基体[どうし]が違うことは分かっていても、その諸属性を附託することはあるからである。たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと[思う。このように、花の属性である]赤さが[水晶の属性と]誤認されること(vibhrama)があるのである。
   [反対主張者の答え]だから[本文中で]その諸属性に関してもと言っているのである。
[主・客の]諸属性が互いに入れ換って[別々の]基体に存在すること(itaretaratra,dharmini dharmānām bhāvah)、すなわち、相互に交換されること(vinimaya)、そ れは起りえない。[本文のこの箇所の]趣旨は以下の通りである。実に、色彩(rūpa) のある場合には、実体(dravya)Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、[Bの]影を宿し、[AにBの属性があると誤解されることがあり]得るで あろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がない[ので]、客観の影が映ることはありえない。たとえば、[クマーリラも]「[色形のない]音声・香・味等が、どうして、[他のものに]反映しようか」24と言っているではないか。従って、この 場合には、消去法(pāriśasya)25を用いることにより、主観と客観の本質を互い.に混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換される[という可能性]が残ることになる。[それ故]もし、これら[主観と客観という]基体[どうし]が完全に異なることを理解して、[その両者を]混同[さえ]しなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。何故なら、[属性間の関係は]それぞれの基体を介在して[成りたって]いるので、[基体間の関係に比べて]疎遠だからである。だから、[本文中に]なおさら[・・・ない]と述べてあるのである。それとは逆にとは、客観とは逆にという意味である。[また]誤り(mithyā)という語は隠覆(apahnava)26を意味している。
   [従って、本文前半部の]趣旨[を要約すれば]次の通りである。すなわち、「[XとYとの]附託[が存在する領域]は、[両者の]違いに対する無理解[の存在する]領 域により覆われ(vyāpta)27ている。しかし、こ[の主観と客観の場合]には、それとは逆で、[主・客の]違いが理解されている。[従って]これ(主・客の違いに対する理解)が無理解を取り払えば、この[無理解の存在する]領域に覆われている附託も取り 払われることになる」[というのが趣旨である]。[そして]、たとえ[附託は]誤りで ある[と理解するのが]正しくても[という前半部は]にもかかわらず[以下の後半部 に]かかっていくのである。

脚注
24
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合で、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。
26隠覆という語は、誤りが物事の真の姿を覆い隠すことから、ここで誤りと 同義語とされている。Pańcapādicāも、この同じ箇所に対する註で、誤り(虚妄)という語には この隠覆と[非実であるとも非実在であるとも]表現し得ないことの二義あることを述べ、この個所では隠覆の意味にとっている。Bhāmatīもこれに従ったのであろう。
27脚注14参照。
(´・(ェ)・`)つ


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