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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

663鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:37:34 ID:5G6CKgYU0
 反対派は普通の人間の文章を例としてウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づくのではないかと疑っているのじゃ。
 人間の文章が文章以外の認識根拠に基づくのは、はたしてそれがすでに存在するものを対象としているからか、それともそれが人間のものだからじゃろうか。
 
 もしすでに存在するものを対象としているからならば直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから認識根拠ではないということになるのじゃ。
 直接知覚等もすでに存在するものを対象としているからなのじゃ。

 人間の文章は人間の統覚機能から生ずるから自己以外のものに基づくとすると、人問の統覚機能を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は直接知覚等と同じようにすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになるのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドがすでに存在するものを対象としているために、ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ自体が確定していないというのじゃ。
 すでに存在する対象に関して、人は聖典に基づかなくてもそれ以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なのじゃ。
 人問の統覚機能に基づいてその対象に関する文章を作ることが成り立つからなのじゃ。
 文章であること等を理由として、ウパニシャッドをも含むヴェーダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく成立するのじゃ。
 ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に基づくということが避けられないのは、それが人問の手になるものであるという理由によるのじゃ。
 すでに存在するものを対象としているからではないのじゃ。


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