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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
328
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2022/04/10(日) 21:58:01 ID:1d4drIFg0
また聞いたのじゃ。
真如はその本体が平等で、一切の相を離れると聞いたのじゃ。
しかしそれならばその本体に、そのようないろいろな功徳があると説いているのかというのじゃ。
答えたのじゃ。
それは実にいろいろな功徳があるといっても、そこには差別の相はなく、等同一味にして、唯一真如であるからなのじゃ。
その意味とは、
無分別は分別の相を離れるから無二なのじゃ。
そうであればさらに差別を説くことはないのじゃ。
業識生滅の相に依って示すだけなのじゃ。
どのように示すかというと、
一切の法は本来ただ心だけであり、実に観念はないのじゃ。
それなのに妄心があって不覚であるから、観念を起こし、いろいろな境界を見るから無明と説いているのじゃ。
心性が起こらなければ、即ち大智慧光明が起こるのじゃ。
もし心が見るという観念を起こせば、見ないという観念も起こるのじゃ。
心性が見を離れれば、法界を遍く照らすのじゃ。
もし心に動じることがあれば、真の識知ではないのじゃ。
それでは自性がなく、常ではなく、楽ではなく、我ではなく、浄でもないのじゃ。
熱脳衰変であり、自在ではないのじゃ。
さらにいろいろなガンジス川の砂より多い妄想に染まるのじゃ。
この意味に対して、心性が動じなければ、すなわちガンジス川の砂より多いいろいろな清浄な功徳の相が現われるのじゃ。
もし心が起こってさらに現前する法の観念があると見るものはまだ欠けているのじゃ。
このような清浄な法の無量の功徳は、すなわち一心、つまり真如であるから観念もないのじゃ。
この故に、満ち足りていることを、名づけて法身如来の蔵とするのじゃ。
如来蔵じゃな。
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