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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

413避難民のマジレスさん:2022/07/02(土) 00:28:28 ID:wu9WNfNM0
(つづき)    p211-212
   [反対主張][「私」という語が身体等に用いられるのは]、全く慣習的用法なので、[実際には]比喩的用法であるにもかかわらず、[人々は、それが]比喩的用法だとは気 づかないのである。[それは]ちょうど、ごま油(taila)という語がカラシ油(sārsalpa)等の[意味にも用いられる]ようなものである。
  [答論]そのように考えるべきではない。この場合にも、[人々は]、「カラシ油等がごま油という語で表現されるのは、こまから生じた液体と[カラシ油との]違いが良く 知られている時だけである」ということに気づいている。[というのは、同じこま油と いう語の]対象でも、こま油とカラシ油が同じものと決まっているわけではない[から である]。
  従って、[以上の論議から]次のことが確定される。すなわち、「二つの[対象を]示 す[語]が持つ比喩的意味という性質[の存在する領域]は、一義的意味と比喩的意 味との識別智(vivekajñāna)[が存在する]領域により覆われている(vyāpta)。従っ て、この場合、領域を覆うもの(vyāpaka)40である識別智がめつすれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]「彼(子供の頃の私)が[今の]私(老人になってからの私)[になったので]ある」と[いう表現(経験)に見られる]ように、身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが[「私」という語の対象として]再認識され る。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論][このような]主張をすべきではない。何故なら、これは、学者(Parīksaka) の場合の話であって、普通の人の場合の話ではないからである。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、普通の人ととりたてて違いがあるわけではない。その理由 についてはのちに『註解』の神聖な作者(シャンカラ)が、 [日常的経験に関しては、学者も動物も]違いがないからである41と[明らかにするであろう]。[このことは]他 学派の人達ですら言っていることである。たとえば、「実に、聖典を考察する人は、こ のように区別している。[ところが]学者はそうではない42と。
  従って、[ここで]消去法43を用いれば、次のように[考えるのが]正しいと我々は 思っている。すなわち、世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」[と言いながらも、一方では、その語を]「私はこの家の中にだけいても知ってい る」というように用いているが、[これは比喩的用法ではない]。身体等と[アートマン との]違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。[それは]ちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空[が有限だと考 えるようなもので]ある。


脚注
40脚注14参照。
41 42
43 210頁13行以下で・・「私はこの家の中だけにいても知っているという表現(経験)説明しうる可能性として、比喩的意味と附託のいずれかを想定し、ここまでで比喩的意味の可能性は否定されたので、消去法によって附託の可能性だけが残るのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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