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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
684
:
避難民のマジレスさん
:2022/11/04(金) 05:50:44 ID:FuSmha0U0
(つづき)
脚注
556
557 出典不明。
558出典不明。
559 従属儀軌によって命じられている従属祭が祭式に用いられるものあるいは用いられたものを浄化するためのものであることについては脚注541参照のこと。
560「アーハヴァニーヤ祭火において護摩を行うべきである」と儀軌によって命じられている場合に、アーハヴァニーヤ祭火とは何か」という疑問が生じたとき、「バラモンは春に祭火を設置すべきである」等の儀軌から、浄化によって限定された祭火 がアーハヴァニーヤ祭火だと理解されるのである。
561ヴィシュヴァジット祭の原則が、それに続いて、ラー トリサットラ祭の原則が述べられている。ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。それに対して、儀軌には果報が述べれていなくても、ラートリサットラ祭の場合のように釈義に述べられてい れば、それを果報と考えるべきである、というのがラートリサットラ祭の原則である。そして両原則の関係については、ヴィシュヴァジット祭の原則も天界という果報について述べている釈義(ラートリサットラ祭の場合と異なり実際には存在しない)を想定することによって、天界が果報だと考えられているのだ、とされるのである。従って、このラートリサットラ祭の原則に従えば、ブラフマンの知識の場合にも、儀軌中にはブラフマンを知ることの果報が述べられていなくても、「ブラフマンを知る者はブラフマンとな る。という釈義に基づいて、ブラフマンになることすなわち不死となることが果報であることになるのである。
562ピンダ・ピトリ供犠とは、新月の日の午後に行われる祖霊に対する供養であるが、これは従属祭ではなくて主要祭である。従って独自の果報をもつはずであるが、それが儀軌はおろか釈義にも述べられていない。従ってこの場合には、先のヴィシュヴァジット祭の原則に従って、天界が果報であることになるのである。ただしここで「ヴィソユヴァジット祭の原則に従えば」となっていないのは、ヴィシュヴァジツト祭は、本来はサットラ祭を執行する決意をして開始した人がそれを継続できなかったときに行われる贖罪祭であって、天界が果報というわけではないからである。
563「ブラフマンは真実(実在)であり、知識であり、歓喜である。」という聖典句を、ブラフマンが永遠であることを示すものとして、すなわちブラフマンが無常であるという推論と矛盾する聖典句として挙げている。
(´・(ェ)・`)つ
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