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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

785鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 23:51:04 ID:awZraiYk0
 以上の理由で『八つのかわらけに盛られた餅を捧げるアーグネーヤ祭は、新月の日と満月の日に決まっているのである』という場合にこの儀軌は、関係を対象としているという主張も退けられたことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 儀軌の対象は生ずるものではないというのじゃ。
 何故なら、生ずるもの,生み出されるものがすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している生ずるものには、それを生み出すものが存在しないからなのじゃ。
 虚空が生ずることはないように。

 また生ずるものが存在しない場合にもそうなのじゃ。
 何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからなのじゃ。

 従って、儀軌の対象は引き起こすもの、すなわち、生じさせる者の心の働きであり、その心の働きは、生むもの、すなわち引き起こされる心の動きや動作から暗に知られるのじゃ。
 そしてこの心の働きが、志向、意欲、努力なのじゃ。
 そして、これらは、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要なのじゃ。
 そのとき、「アーグネーヤ祭」という言葉から思い起こされる、実体と祭神との関係こそが、これの対象となるのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 人間の努力の対象は働きであるから、働きではない関係が人間の努力の対象となることはないのじゃ。
 何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は壷を直接に対象としているのではなく、棒などを手などで動かすことなのじゃ。
 従って、壷を作ろうという意欲は働きこそを対象としているのだと理解されるのであり、直接に壷を対象としているのではないのじゃ。
 すなわち壼は「壷を作れ」という文章が命じているものと関係するものとして、 それのなかに存在しているのであって対象としてではないのじゃ。
 「壷を作れ」という文章が命じている対象としては、手などの働きだけが存在しているのじゃ。

 従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわち、実体と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのじゃ。
 アーグネーヤという供犠によって好ましい事柄、すなわち天界を生ずるべきである」という意味なのじゃ。
 従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」というのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのじゃ。

 そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれが、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という執行資格と結び付くのじゃ。
 従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの、活動を対象としているのじゃ。


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