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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
542
:
避難民のマジレスさん
:2022/09/02(金) 02:42:23 ID:W56OOOXo0
3.3.1.4.ブラフマンの念想それ自体が生ずるのに祭式は必要でない p292 148左/229
まさに同じ理由で、[ブラフマンの]念想が生ずるのにも[祭式は必要では]ない。 [というのは、すでに]述べたように、聖典に基づく疑問の余地のない知識が生じたのちには、祭式に対する資格というものが存在しないからである。そして同じ趣旨で、「[人 は]祭式によっても、子孫によっても、また財産によっても[不死に達しない]。放棄 によってのみ不死に達するのである」269という天啓聖典句があるのである。
脚注
269
3.3.1.5.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つ(1)一一供犠等の場合 p292-293
[反対主張]さて、ところで祭式は、この世でまったく無用なのだろうか、もしそうだとすると、「供犠によって知ろうと望む」等の天啓聖典句が矛盾することになろう。
[答論]そうではない。というのは、供犠等の祭式は[ブラフマンの知識が生ずるのに]間接的に役立つ(ārādupakāraka)からである。詳論すれば次の通りである。バラモンは、このアートマンを、ヴェーダの学習によってすなわち常にヴェーダを学習す ることによって、知ろうと望むすなわち知りたいと欲するが、知るわけではない。というのは、知識は実際には主要なものであるが、[/vidという]語根(prakrti)の意味なので、言葉の上では従属的な位置にあるのに対し、欲求は[sanという]接尾辞の意味なので主要なものであり、さらに行為は主要なものと一致する(sampratyaya) からである270。実に、「王の家来を連れて来い」と言われた時には、実際には王が主要なものであるが、それは家来を修飾しているので、言葉の上では従属的な位置にある (upasarjana)271[から、王を]連れて来ることはない。そうではなくて、言葉の上ではそれ(家来)が主要な位置にあるので、まさに家来を[連れて来る]のである。このように供犠も、ヴェーダの学習と同じように、欲求[を生ずる]手段として命じられているのである。苦行すなわち節食の場合もまた同じである。苦行とは、欲望のままに食べないことである。実に、清らかな良いものを適度に食べる人に、ブラフマンを知 りたいという欲求が存在するのである。だが、まったく食べない人には、[ブラフマンを知りたいという欲求が存在し]ない。死んでしまうからである。また、cāndrāyana 等の苦行(断食)272に没頭している人にも、[ブラフマンを知りたいという欲求は存在し]ない。気持ちの平静さが崩れること(dhātuvaisamya)になるからである。
脚注
270ここで語根と訳したprakrtiは、語が変化する以前の元の形のことを言い、実際には動詞語根と名詞語幹のことを言うが、ここでは内容的には語根のほうを指しているのでこう訳した 。なお語根や語幹より接尾辞の意味のほ うが主要である。
271従属的な位置にあるものとは、compoundにおいて第一格で示されるものであるが、第六格が第一格で示されているので、compound 中の第六格はupasarjanaである。
272
(´・(ェ)・`)つ
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