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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

759避難民のマジレスさん:2022/12/06(火) 00:37:21 ID:32hlEMW.0
(つづき)   p420-421
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないので、[語と]関係する(語によって表示される)とは[世間一般には]知られていない。従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえない。とすれば、どうして、ウパニシャッド[という文章]の対象でありえようか。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えているのである。何故なら、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』 [と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであると。アートマンは、[直接知覚の対象である]牛などとは異なり、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている(認識そのものである)ので、[それを覆う]あれこれの添性を滅してゆけば、[ブラフマンを]文章の対象として表現す ることが可能なのである。それはちょうど、腕輪、耳飾り等[の添性]を破壊すれば、 金[という輝けるもの]が[現れてくる]ようなものである。実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない(認識されない)ということはなく、また、 それ(自己認識=ブラフマン=アートマン)を限定している身体・器官等の集合体が[輝かない(認識されない)]ということもないのである。従って、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのである。
  [反対主張]添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。アートマンは、[その存在を否定するその者のアートマンなので]、否定することはできないからであると。実に輝きが、万物のアートマンなのである。何故なら、それ(アートマン)は現象世界という虚妄の基体だからである。基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのである。何故なら、縄(基体)が存在しないのに、縄を 蛇だとか水の流れだとか誤認(虚妄)するなどということは、これまで全く経験されたことがないからである。さらに、現象世界の認識はアートマンの輝き[が発する]光なのである。たとえば、天啓聖典に「その(アートマンの)光に基づいてすべてが輝き、 その(アートマンの)光がこのすぺてを輝かせる」712とあるように。だから、アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのである。従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質一[それはウパニシャッ ド]以外の認識根拠の対象ではなく、あらゆる添牲と無縁である一についての理解(悟り)は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのである。

脚注
710 脚注646参照。
711 本訳399頁参照。
712
(´・(ェ)・`)つ


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