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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

77避難民のマジレスさん:2020/12/25(金) 21:16:51 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:あなたは「道徳性は社会的有用性である」と言いますが、個人にとっては無益なのでしょうか? それは個人には全く役に立たないのでしょうか?
道徳や道徳的行動は、社会に関する限り、単に実用主義的なものだが、個人にとっては、それは実用ではなく、喜びだ。したがって、社会のニーズは疑似道徳でも満たされるが、個人にとってはそれだけでは十分ではない。他人に対して良い振る舞いをすることは、社会にとってはそれで十分だが、個人にとってはそれで十分ではない。自分の内面が良いかどうか--このことをこそ、見極めなければならない。社会はあなたの内面ではなく、あなたの人格に関心を持っている。しかし、あなたにとって人格は衣服にすぎない。この覆いが外れたところからあなたは始まるのだ。この人格の仮面から離れて、その背後にあるのがあなたの本当の存在だ。そして、ここに本当の道徳が生まれるのだ。

偽りの道徳によって作られた社会を文明と呼び、本当の生に到達した人間で構成された社会を文化と呼ぶ。これが文明と文化の区別である。文明は実用であり、文化は内なる調和と喜びだ。

今日の私たちには文明はあるが、文化はない。文明は他人との関係を浄化することから生まれ、文化は自分自身を浄化することから、徳を積むことから生まれる。文明とは肉体であり、文化とは魂だ。魂にしっかりと根を張っている者だけが文化を創ることができるのだ。

第三の質問:宗教は社会的なものではないのですか? 完全に個人的なものなのでしょうか?
そうだ。宗教は絶対に個人的な問題だ。社会には魂も意識の中心もない。社会は、私たちの相互関係の産物に過ぎない。魂を持っているのは個人であり、それゆえに宗教も同様に個人的なものでなければなならない。宗教は私の関係の一つではなく、私の存在だ。自分の本性、自分の本当の存在を発見することと、その後に続く表現が宗教なのだ。

宗教、ダルマは自己認識だ。宗教は社会的なものではないので、修行、宗教の実践は集団とは関係ないが、宗教的な経験は集団や社会に光を当てる。宗教の実践は個人的なものだが、社会にも影響を与える。人が内なる光に満たされていれば、その人の行動も内なる光で満たされる。内なる存在は個々のものであり個人的だが、行動は社会的なものだ。

修行は決して集団的ではあり得ない。なぜならば、他者と一緒にではなく、独りで、完全に独りで自分自身を知るようになる必要があるからだ。プロティノスはよくそれを表現した:「独りから独りへの飛翔。」 まさにその通りだ。その飛翔は確かに非常に孤独で、仲間のいないものだ。しかし、飛翔から得られる喜びは他の人に感染し、彼らもまた動かされる。孤独の中で得られるもの、自己の孤独の中で得られるものは、四方にその香りを広げていくのだ。

プロティノスは悟りを得ていたのでしょうか?


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