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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

702鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 23:58:53 ID:qiL6aIhY0
 反対なのじゃ。
 変異した部分と変異していない部分は、異なっておりかつ異なっていないというのじゃ。
 それら両者は原因を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっていると言えるからなのじゃ。
 たとえば金の腕輪等は金を本質とするという点では原因である金と異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では異なるようなものじゃ。

 答えたのじゃ。
 異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはないのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 それは正しくないのじゃ。
 「矛盾する」というわれわれの認識はないというのじゃ。
 それは、認識根拠に反するようなところに存在するのじゃ。
 一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で正しいと認めるべきなのじゃ。
 たとえばこのイヤリングは金であるという同格関係に基づく認識には、両者が異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れているのじゃ。

 この場合、両者が全く異ならないとすると、このイヤリングは金であるという文章は同語反復であることになってしまうじゃろう。
 一方、両者が完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関係か成り立たないことになるのじゃ。
 また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係)の場合にも成り立たないのじゃ。

 というのは、ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について「鉢はナツメの実である」とは言わないのじゃ。
 また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからなのじゃ。
 この同格関係に基づく認識が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのじゃ。

 このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているのじゃ。
 結果である世界は存在を本質とするという点では、原因であるブラフマンと異ならないが、壼等の結果という姿では原因と異なるのじゃ。


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