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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
503
:
避難民のマジレスさん
:2022/08/14(日) 01:34:39 ID:u1Q0ogOM0
(つづき) p266-267
ここで、[以上述べてきた]ことを要約すれば以下の通りである。
[反対主張](1)ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌194から明らかなように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、「ヴェーダの学習」という語で表現されている全 ヴェーダの意味が理解されることになる。[従って]諸ウパニシャッドも、「ヴェーダの 学習」という語で表わされる[わけだから]、祭式に関する儀軌・禁令のように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、意味が理解されることになる。このことが、ヴ ェーダの学習[を命ずる]儀軌から分かるのである。(2)[さらに]「しかし、聖典の 意味は[通常の用法と]異ならない」という格言(nyāya)195から[も明らかなよう に]、諸ウパニシャッドの意味は、真言(mantra)の場合のように196、通常のものな のである。(3)[そして]諸ウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりであって、行為主体であるとか経験主体であるということは無関係で、多様性のない、唯一 の内的アートマンが理解されるのである。[だが、この(1)(2)(3)]にもかからず、 諸ウパニシャッドは、「私」という観念一[それは]疑問や拒斥とは無縁のもので、 アートマンを行為主体・経験主体で、苦しみ・悲しみ・迷妄に満ちたものだと考えている一と矛盾する[ので]、本来の意味からはずれていることになる。[すなわち、諸 ウパニシャッドは]比喩的意味をもつか低唱のみに用いられるかのいずれかであって、 [本来]意図していない意味をもつものなのである。従って、そ(諸ウパニシャッド) の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサー一[それは]四章からな る一は、開始すぺきではないのである197。
[答論]もし、「私」という観念が正しい認識根拠であれば、それ(反対主張)はその 通りであろう。だが、それ(「私」という観念)は、天啓聖典等を拒斥することができな いし198、また、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められ ていないので、附託されたものなのである。従って、諸ウパニシャッドは、[本来]意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相(laksana)をもっているものなのである。[そして]内的アートマンこそが、それら (諸ウパニシャッド)の一義的意味(mukhyārtha)なのである。[そして]これから述 べるように、これ(内的アートマン)は、疑間の余地のあるものであってかつ意味(目的)のあるものなので、[この内的アートマンについて]考察するのは正当なのである。
以上のような理由で、 『ブラフマ・スートラ』の作者は、そ(内的アートマン=ブラフ マン)の考察をスートラという形で199、[次のように]述べているのである。そこで、 この故に、ブラフマンの考察が[開始されるべきである](Brahmasūtra I.1.1)と。
脚注
194 195
196「真言」(mantra)とは、ヴェーダを構成する五部門、儀軌・真言・余命・禁令・釈義の一つで、祭式の執行と関連した事物を想起させるヴェーダの章句 のことを言う。
197「シャーリーラカ・ミーマーンサー」すなわち「ブラフマ・スートラ」は、四章からなり、諸ウパニ シャッドの意味の考察を目的とするわけだが、諸ウパニシャッド自体が本来的な意味をもたなければ、それについて考察しても無意味なので、『ブラフマ・スートラ』を開始する必要はないというである。
198 天啓聖典は人間の作ったものではないので絶対的権威があり、「私」という観念と矛盾する場合には、 「私」という観念のほうが否定されるべきであるという論議については、本訳207頁以下参照。
199「スートラ」をBhāmati,は次のように定義している。「賢者は、簡潔で、意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスートラと呼ぶ」
(´・(ェ)・`)つ
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