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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
481
:
避難民のマジレスさん
:2022/08/03(水) 01:28:54 ID:18AWXTn60
(つづき) p254
[答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。身体にアートマンの性質が 附託されていなければ、誰ひとり活動することはないと。[何故なら、身体にアートマ ンの性質が附託されていなくても活動が成り立つとすると]、熟眠状態においても活動が[成立する]、という誤謬に陥るからである。以上が、[『註解』本文の]趣旨である。
[反対主張]織子は、自己(アートマン)の附託されていない織機を作動させて、布 を作る主体となるように、それ(身体・感覚器官等)の認識者(アートマン)は、アートマンの附託されていない身体・感覚器官等を作動させて、認識主体となるのではないのか。
[答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。また、これらすべてが、すな わち、[基体の]相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは[何ものとも]結びつかないので、すなわち、常にどんな形であれ、あらゆる属性および[その]基体と結びつかないので、認識主体ではありえないと。確かに織子等は、活動を備えている[ので]、織機等を統御して作動させている。だがアートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動することはありえないのである。これが、[この本文の]意味なのである。
脚注
157この箇所は、「認識主体であることがなければ、認識根拠が機能することてありえない。このような場合どうして、認識根拠は附託に基づいているのか」という疑問に対して、「認識主体も精神性と物質性という姿の混ざりあった認識の基体(なの)で、それ(附託)を本質 とするものであることはありうる。精神性と物質牲が混ざりあうことは附託がなければ存在しないから、 認識根拠は当然附託に基づくはずである」と答えているのだとされている。
I58 壺の認識というような外的な対象の知覚を例にとると、内官は視覚を通して対象である壷の方に向 かって外に出て、壷に達し、そこで変容して壷の形を取る。このような変容が内官の変容 であるが、この時、正しい認識は、アートマンという純粋精神の二つの限定者、すなわち外界の対象であ る壷と内官の変容とが外界の同一の場を占めた時に、言いかえれば、両者によって限定された純粋精神が 同一である時に、生ずるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
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