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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
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:
避難民のマジレスさん
:2020/12/26(土) 21:02:32 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:神とは何ですか?
神とは人ではなく、経験だ。観ること、自我を解体した後の宇宙についての経験、それが私が神と呼ぶものだ。神の経験には特定の種類のものはなく、むしろ、完全で普遍的な愛の経験が神だ。それは中心を持たず、すべての存在だ。すべての存在がその中心だ。神の経験を語るのは間違いだが、あなたは完全な愛の経験は神だと言い得る。
愛とは、二人の人間の間の関係だ。この同じ関係が個人と存在の間にあるとき、私はそれを神と呼ぶ。究極の段階、愛の開花こそが神なのだ。そして、ここで私は、「神は愛なり」というキリストの格言を思い出す。
「私」が消えたとき、残るものは愛だ。自我を取り囲む壁が崩れたとき、残るものは愛だ。愛そのものが神なのだ。それゆえに、神を知ることは不可能だが、神になることは可能だ。
第五の質問:あなたは、私たちが生きているこの生は、全く生ではなく、死ぬことの長い引き延ばしの過程だと言いました。これはどのようなことを意味していますか?
我々が生と呼んでいるものが生ではないことは、まったくの真実だ。もしそれが本当に生であるならば、いったいどうやって死で終わるのだろうか? 生と死は二つの矛盾したものなので、どうして死が生の成就になるのだろうか? 死は誕生の終わりであって、生の終わりではない。
そして、死は最後に来るということから、死は最後にだけ始まると考えてはならない。死は誕生そのものの中に現前しているのだ。それは生まれたその日から始まるのだ。生まれた後、私たちは刻一刻と死んでいく。この死の過程が完了したとき、私たちはそれを死と呼ぶ。生まれた時に種として存在していたものが、最後には完熟した形で現れる。したがって、死後には何も確実なものはないが、死は確実だ。それは、誕生そのものと一緒にやってくるからだ。誕生は死の別名にすぎない。このことをよく理解しておこう。あなたは生まれたその日から死に始める。だからこそ、私たちが知っているような生は、生ではなく、ゆっくりと徐々に死んでいく長い過程であると言いたいのだ。
私たちはこのゆっくりとした死に慣れていて、生には慣れていないので、いつもこの死から自分自身を救おうと忙しくしている。私たちの計画や活動はすべて、ある種の安全と自己防衛を目的としている。そして、私たちは何をしているのだろうか? 私たちはいつも死から身を守ることに忙しくないだろうか? また人は、同じ理由で、防衛のために宗教的になる。死が近づいていると感じた時に宗教に入るのは、そのためだ。 ほとんどの場合、老人の宗教はこの種のものだ。私はこれを本当の宗教性とは呼ばない。それは死への恐怖の一側面に過ぎない。それは最後の安全対策だ。真の宗教性とは、恐怖からではなく、生の経験から出てくるものなのだ。
―
仕事や娯楽に打ち込むのも、死から身を守るというか、死を忘れるための活動だと感じ、何をしているのだろうと思う時があります。一方で、そのような活動から得られる快を好ましく感じる時もあります。引き続き、偽りの観念の観察に励みます。
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