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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

521避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 23:43:58 ID:BEBLCLy60
3.2.2.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(2)一ウパニシャッドの場合 p280

   [反対主張に対する反論]ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解する
のに祭式が必要なのであり、それ以外の文章の場合にはそうではない。
  [反対主張]それは正し(く)ない。何故なら、[そんなふうに考える]特別の理由がないからである。
  [反対主張に対する反論]心の清らかでない人たちは、「汝はそれなり」という230[ウ パニシャッドの]文章から、「汝」という語の意味するもの、すなわち、行為の主体であり経験の主体である個人存在と、「それ」という語の意味するもの、すなわち最高存在一[それは]本性上永遠で、清浄で、悟っており、無関心である一とが、そのままで同一であると、即座には理解することができない。何故なら[「汝」という語の意味するものと「それ」という語の意味するものとのあいだに]、適合関係がないことは確実だからである。しかし、供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは、信仰をそなえている[ので]、まず[「汝」という語の意味するものと 「それ」という語の意味するものとのあいだの]適合関係を理解し231、さらに[個人存在と最高存在とが]同一であることを理解するであろう。
   [反対主張]もしそうだとすると、[語の意味どうしの]適合関係を確定する根拠は、
正しい認識根拠にある[のに、それが]正しい認識根拠でない祭式から[生ずる]のだとでも、あなたは言うことにきめているのだろうか。それとも、直接知覚等以外に祭式も正しい認識根拠だ[とでも言うことに決めているのだ]ろうか。だが[いずれにせよ、ウパニシャッドの文章の語どうしの]適合関係は、ウパニシャッドに反せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づく論理の力によって確定されるのだから、祭式は余分なのである。

脚注
230
231「汝」という語は個人存在を指し、「それ」という語は「最高存在」を指すので、通常の意味では両者は異なるから、両者の間には、r汝=それ」というような形で表現されるような適合関係は存在しないは ずだが、心が清らかになり、信仰をそなえると、個人存在と最高存在が本質的に同一であることに気づいてくるから、適合関係が理解されるようになってくるのである。


3.2.3.ブラフマンの念想(修習)には祭式が必要である  p280-281

  従って、「汝はそれなり」等[のウパニシャッドの文章]を聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに[それを]それ(ウパニシャッド)に 基づく論証によって確定したのち、それ(個人存在と最高存在が同一であること)を 長い間、絶え間なく念想一別名修習(bhāvanā)ともいう一すれば、その果報としてブラフマンの直証が[得られるのだが、その念想に]供犠等が役立つのである。[そ のことが]例えば、「しかし、それ(修習abhyāsa)は、長い間、絶え間なく専念して 実行されると、堅固な境地に到達する」232と述べられているのである。そして[ここ で]、「専念」というのは、不淫、苦行、信仰、供犠等のことなのである。またまさに同
じ理由で、「賢明なバラモンは、まさにそれ(アートマン)を知り、智慧を働かせるべきである」233という天啓聖典句がある。論理に支えられた聖典の言葉によって「知り」、 「智慧」すなわち修習を働かすべきである、というのが[この天啓聖典句の]意味なの である。

脚注
232 233
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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