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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

420避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 07:06:19 ID:aoFe30dE0
(つづき)    p215
  また、ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。従って、[両行為の]行為主体が同じだから、附託し・・・日常的表現 (経験)であると[いう文が]成り立つのである。すなわち、[接尾辞ktvā(adhysya のsya)は、附託が日常的表現(経験)より]時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している52。〔このことが]誤った認識 に基づく日常的表現(経験)[と述べられているのである]。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて[日常的表現(経験)がある]。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
  さて、以上のように、[「私」という観念の]本質である附託とその結果である日常的 表現(経験)について述べたのち、[『註解』は次に]その原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。[無識別(無相違)(aviveka)によってとは]相違(viveka)に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、・もし文字通りにとれぱ[両者が同一となり]、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性および[その]基体をと述べられているのであ る。相違(vivekm)とは、本来は、基体間の場合には非同一性(atādātmya)を、諸属性問の場合には混同しないこと(asamkīrnata)を意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在(Vastusat)を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。[それは]ちょう ど、真珠母貝を銀と同一であると誤認するのは銀との相違を理解していないことによ るのと同じである。しかし、この(今問題となっている)場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に53、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンと[それ以外のものと]の相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

脚注
52 接尾辞ktvāが、行為の時間的前後関係を示す
53
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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