したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

オショーのSadhana Pathを読んで実践する

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板