したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

オショーのSadhana Pathを読んで実践する

615避難民のマジレスさん:2022/10/05(水) 01:57:28 ID:kK.0rKvU0
5.1.ブラフマンの考究における推論の意義  p337-338 170右/229

  [反対主張][世界の]生起等云々というこのスートラでも、まさにそれ(推論)が問題となっているのではないか。
  [答論]そうではない。何故ならスートラは、ウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするものだたらである。実に、ウパニシャッドの諸々の文章が、スートラによって引用され考察されているのである。何 故なら、[ウパニシャッドの]文章の意味を考察して[その意味を]確定することによって、ブラフマンの悟りが達成されるのであって、推論等の認識根拠によって[ブラフマンの悟りが]達成されるわけではないからである。だが、ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となることは妨げられない。何故なら、 天啓聖典自身が、論理を[聖典理解の]補助として認めているからである。たとえば、「[アートマンは]聞かれるべきであり、思惟されるべきである」433という天啓聖典句があり、また、「学識があって思慮深い人がガンダーラに到達 するように、師を得た人は[『私が解釈するまでは云々』と]この世で知るのである」434と、人問の統覚機能が[聖典]自体の補助であることを示しているのである。

  反対主張が提示される。[世界の生起等云々という]この[スートラ]でも云々と、これまでで、[この]節(adhikarana)の主題(ブラフマンの本質)は完結しているのであるが、[師シャンカラは]、親切にも以下の節の主題にさらに言及して、[反対主張を次のように]退けているのである。そうではない。[何故ならスートラは]、ウパニシャッドの云々と。[そして、スートラが]ウパニシャッドの文章という華をつなきとめることを目的とするものであるということを、[次のように]示している。[実に、 ウパニシャッドの[諸々の文章が]云々と。[ウパニシャッドの文章の意味の]考察の帰結は、二種の無明が潜在印象(くま注)とともに滅せられることである。まさにそののちに、ブラフマンの悟りが達成される、すなわち現れてくるのである。
  [反対主張]ところで、ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのであろうか。たとえば思惟はどうなのだろうか。またそれ (ブラフマン)への開眼すなわち直証はどうなのだろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。だが、ウパニシャッドの諸文章が云々と。だが[ここで言う]推論は、ウパニシャッドと矛盾せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づくものであると理解すべきである。また、聖典の言葉と矛盾せずかつそれ(聖典の言葉)に基づく論理による考察が、思惟なのである。そして論理とは、アルターバッティ435あるいは推論のことで ある。

脚注
433 434
435アルターパッティは、「理解されるべきものに関する認議によって理解させるものが想定されること」と定義されてい る。すなわち、X(たとえば夜食べること)がなければY(たとえば昼食べない人が太っていること)が理解されないとき、そのY(昼食べない人が太っていること)が理解されるべきものであ り、X(夜食べること)が理解させるものであるが、このようにアルターパッティとは、理解されるべきもの(昼食べない人が太(り→っ?)ていること)を知って、それを理解させるもの(夜食べているということ)を想定することを言うのである。
くま注
サンスカーラ 潜在印象
http://www.wikidharma.org/index.php/サンスカーラ
(´・(ェ)・`)つ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板