[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
オショーのSadhana Pathを読んで実践する
402
:
避難民のマジレスさん
:2022/06/28(火) 23:43:05 ID:t8tOrmO.0
1.3.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[I]に価するという教証 p207-210 105右/229
ここ(本文の後半部)では、[先に紹介した反対主張に対して、師シャンカラは]、も し「私」という経験にアートマンの真の姿(砒matattVa)が顕現しているのなら、[反 対主張者の]言う通りだろうが、[実際にはコそうではないのだ、ということを言お
うとしているのである。詳論すれば次の通りである。天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プ ラーナには、アートマンの真の姿は、あらゆる添性(upadhi)28に限定されない、無
限の歓喜・精神性そのものであり、無関心(ud酎na)であり、不二(advitTya)であ る、と説かれている。これら[天啓聖典等の章句コは、序論部(upakrama)・本論部 (paramar≦a)・結論部(upas岬hara)を通じて、アートマンのこのような真の姿を繰
り返し(kriy語amabhiharepa)述べている。[従ってコそれ(アートマンのこのような 真の姿)が[天啓聖典等の章句の]主題である。[それ故たとえ]インドラ神でも、[こ れらの章句を]比喩的意味に解することはできない。その典拠は、「『なんて美しいん だろう。なんて美しいんだろう』[という例に見られるコように、繰り返して述へれば (abhy語ena)、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない」29と[いう章句にある]。一方、「私」という経験の示す ところによれぱ・アートマンは・有限であり・多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされ てい乱[この「私」という経験の]対象が・どうして・アートマンの真の姿であった
りしようか。また、どうして、[私という経験に]誤りのないことがあろうか。
[反対主張]直接知覚は、[聖典よりコ先に存在する認識根拠(jye§tapram師a)30で
あ乱[従って]聖典はそれ(直接知覚)に基づいている。[アートマンとブラフマンの 同一性を説く]聖典は・[この]直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つか[のいずれか]である。
[答論]こ[の反対主張]は誤りである。何故なら、[聖典]自身から生じた認識の妥当性[を証明するの]に、[聖典が他の認識根拠を]必要とすることはないからであ る。[その第一の理由は]、それ(聖典)は、[天啓であって]人間の手になるものでは ないので、欠陥があるのではと疑う余地が全くないからである。[また、第二の理由は、 他の認識根拠では知ることも拒斥することもできない事柄が、聖典から]知られることからも分かるように、それ(聖典)は、自立した認識根拠だからである。
[反対主張][確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた]認識の妥当性[を証明するの]に、[直接知覚に]基づくことはない。しかし、[聖典から認識が]生ずるため には、直接知覚が必要である31。[ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は]、そ[の直接知覚(私という経験)]に反している。従って、[この場合、聖 典から認識が]生じないことになり、[聖典は]誤った認識根拠となる。
[答諭]そうではない。というのは、[アートマンという真理に関する認識を]生み出す[聖典]は、[直接知覚には]反しないからである。何故なら、もし[聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を]否定すれば、[聖典から認識が生ずる ための]原因が存在しなくなるので、[認識が生じ]ないことになる。しかし、[実際には]、聖典[から生ずる]認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、[聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の]究極的な(アートマンとい う真理に対する)認識の妥当牲である。また、それ(究極的な認識根拠としての直接知覚)は、それ(真理の認識)を生み出すことはない。というのは、よく経験されるよ うに、真理の認識は、世俗的な認識根拠[としての直接知覚]一[それが]究極的な (アートマンという真理に対する)認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるか らである、たとえば、[世の人々が]、長いとか短いなどの性質一[それは、音声の属性であって音節の]属性ではないのだが一を、音節に附託して、「真理」を認識する根拠としているように。すなわち、世の人々は、ナーガという語から象を、ナガという 語から木を[それぞれ]理解するが、[それは]誤りではないのである。
脚注
29 30
31 語から認識が生ずるのは、語を聞いたときだけである。この意味で聖典(語)から認識が生ずるのには、直接知覚が必要である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板