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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

745避難民のマジレスさん:2022/11/29(火) 01:46:13 ID:FCj5jpwY0
4.9.以上の理由でブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではない p412-413 208左/229

  だとすれば、ありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかない。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾(liń等)が聖典で用いられていても679、それは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効である。それはちょうど、石などに 剃刀の刃等をあてたようなものなのである。何故なら、[この「すべきである」 等の意味の人称語尾は]取捨とは無縁な事物を対象としているからである。
  [反対主張]では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」680等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのか。
  [答論][人間の]自然な活動の対象さら[人を]引き離すために存在して いるのである。実に人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と[望んで]、外に向かって行動するものだが、 その場合には、究極的な人間の目的(解脱)を得ることはない。そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の[諸聖典句]が、このような究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果(身体)と手段(器官)の集合体681の自然な活動の対象から引き離して、[その心の]流れを682内的なアートマンに向けさせるのである。そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるのである。「このすべてがアー トマンなのである」683「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなっ たとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」684「このアートマンがブラフマンなのである」685等々と。
  さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 という[反対主張者の批判]686は、その通りなのだと[われわれの]認めるところである。何故なら「ブラフマンとアートマン[が同一であること]を悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからである。このような趣旨で、「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」687という天啓聖典句があり、また、「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」688いう聖伝書の句もあるのである。
  従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのである。

脚注
679 その例として、「アートマンを見るべきである」、「汝がブラフマンであると知れ」、「アートマンは見られるべきである」という文章を挙げている。
680 681 682 683 684 685
686本訳355頁参照。
687 688
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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