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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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