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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

682鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/03(木) 23:43:20 ID:nwQZKQi60
 反対が続くのじゃ。
 さらに、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのならば、なぜ聖典には聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのか、というのじゃ。
 思惟等を命ずる聖典句が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではないというのじゃ。
 そうではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのじゃ。

 この遂行しなければならないものは駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれているのじゃ。
 儀軌以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの,新得力と呼ばれるのじゃ。

 対象であるアートマンの知識を執行することなしには、遂行しなければならないものは実現しないのじゃ。
 その遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自らを限定する対象であり、自らを実現する手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのじゃ。

 遂行しなければならないものは、自らを限定する対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定されるのじゃ。
 同じように知識も、自己を限定する対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、その知識を確定するために、アートマンを暗示しているのじゃ。
 アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなの

 同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていることも、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」と述べられているのじゃ。

 儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの、新得力、を限定する対象である知識にとっては、それを生ずるために執行しなければならないということなのじゃ。
 その知識を限定する対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのじゃ。


 つまり聖典が説いているは遂行できるアートマンであり、ブラフマンではないというのじゃな。
 梵我一如ではないというのじゃ。
 反対するものがそう言っているのじゃ。


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