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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

538避難民のマジレスさん:2022/08/31(水) 02:25:19 ID:BkE9XLdk0
(つづき)  p289-290
   [答論]その通りである。「愛児よ、[太初には]この[世界]は有のみ[であった]」で始まり、「汝はそれなり」で終わる章句259一[それは]ブラフマンの考察に役立ち、よく復唱される一に基づいて、身体一[その]質料因が無始の無明である一とは異なる内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続してゆく。にもかかわらず、これらの日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じない。それはちょうど、黄疽で感覚器官の損なわれた人は、砂糖を吐き出して捨てても、それ(砂糖)が苦いと[信じてはいない]ようなものである。また 同様に、[祭式の]行為、行為者、行為手段、行為方法、果報などの様々なものが実在しないと確知している者に、どうして[祭式を執行する]資格があろうか。というのは、 [祭式を執行する]資格があるのは賢者だからである。さもなければ、動物や奴隷にも [祭式を執行する]資格があると認めざるをえないであろう。そしてここ祭事部では、 [祭式の]行為、行為者等の本質の違いを知っている者(vidsyamāna)260が、賢者だと思い込まれているからである。まさにこのような理由で、神聖なる註釈者(シャンカ ラ)は、聖典が無明を持つ者に関係していると説明していたのである261。従って、バラモンや庶民というカーストに属すと思い込んでいる人は、王族というカーストに属す と思い込んでいる人が執行者であるラージャスーヤ祭262に対して、[執行の]資格がな いように、再生族、行為者、行為、行為手段等の区別[があると]思い込んでいない人 は、それら[の区別があると]思い込んでいる人が執行者である祭式に対して、[執行 の]資格がないのである。また、[執行する]能力はあっても[執行する]資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は、バラモンやクシャトリヤの行ったヴァイシュヤストーマ
祭263のように、果報を生みださないのである。従って、目に見える果報のために[行われる]祭式の場合には、[執行の]能力のある人が執り行えば、[果報は]目に見えるので、[その]果報を得るであろうが、目に見えない果報のため[に行われる祭式]の 場合には、[その]果報は聖典に基づいてのみ理解される[ので]、[執行の]資格のな い人にもたらされることはないであろう。以上のような理由で、[ブラフマンの]念想 の結果[が生ずる]のに祭式は必要ではないのである。

脚注
259
260ここで知者を表すのに、未来形の分詞を用いている理由について、実際は賢者でないのに、賢者に見える人という意味をもたせるためだとしている。
261 本訳257-258頁参照。
262この祭式は王の即位式である。
263この祭式は庶民が行うものとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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