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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

487避難民のマジレスさん:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)


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