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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
422
:
避難民のマジレスさん
:2022/07/05(火) 23:36:43 ID:bM1Ezd960
つづき) p215-216
[答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。すなわち、[真実と虚妄とを混淆して、両者の]相違が分からないために附託して、というのが[本文の脈略なのである]。[また]真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆してすなわち結びつけて、というのが[この句の]意味である。また、本来は、現象的存在と究 極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから[混淆して (mithunīkrtya)という語に、本来]混淆されないものが混淆されるという意味を示す 接尾辞cvi(mithunīkrtyaのī)54が用いられているのである。その趣旨は、「[被附託 者(aropya)は]、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、[附 託に]用いられるのは、被附託者の認識であって、[被附託者という]実在[自体]で はない」という点にある。
[反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)が[アートマンに]附託される。そして、そ[の被附託者である非 アートマン]の認識は、[非アートマンのアートマンヘの]附託に基づいている。従っ て、[認識と附託とが]相互に依存しあう(parasparāśraya)[という理論的誤謬を]ま ぬがれないことになる。
[答論]だから、生得の(naisargika)と言っているのである。この日常的表現(経 験)は、本源的(svābhāvika)であり、無始である。[この]日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、そ れぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである55。こ[の過程]は、種と芽のように無始であるら、[認識と附託が]相互に依存しあうことはない。これが、[この生得のの]意味するところである。
脚注
54原文は「XでなかったものがXになること(あるいはXでなかったものをXにすること)」という意味である。例えば、白くなかったものを白くするという意味で、この接尾辞cviが用いられる。本文の場合、mithunam karotiというと、本来混淆し合って当然のものを混淆するという意味になるが、mithunīkarotiが用いられているので本来混淆されないものが混淆されるという意味になる、というのが本文の趣旨である。
55非アートマンのアートマンヘの附託Aから非アートマンAが生じ、その非アートマンAがアートマンに附託(附託B)される。その附託Bから非アートマンBが生じ、その非アートマンBがアートマンに附託(附託C)される...。このような過程が無始であるといわれているのである。
(´・(ェ)・`)つ
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