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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
318
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2022/04/07(木) 22:09:25 ID:1d4drIFg0
真如の薫習、つまり修業の実践にも二種あるというのじゃ。
一つ目は自体相薫習なのじゃ。
二つ目は用薫習なのじゃ。
自体相薫習とは、真如ははじまりもない昔から、無漏の法をもっていて、不思議の業を備えており、境界の性となるのじゃ。
この二つの意味で恒常に薫習するのじゃ。
薫習力があるから、衆生に生死の苦をいとわしめ、涅槃を求めさせ、自ら真如法ありと信じて発心修業させることができるのじゃ。
また聞いたのじゃ。
もしこのようであるならば、一切の衆生はみんな真如があるはずなのじゃ。
もしみんなよく実践修業するならば、法を信じたり、信じなかったり、無量の前後の差別があるのか。
みんなまさに一時に真如の法ありと知るならば、実践に勤め、方便して涅槃に入るじゃろう。
答えたのじゃ。
真如はもとから一つであるのじゃ。
しかし無量無辺の無明があり、もとよりこのかた自性差別して、厚薄が同じでないからなのじゃ。
ガンジス川の砂より多い上煩悩は、無明によって起こり、差別あるものじゃ。
我見、愛染の煩悩も無明によって差別在るのじゃ。
このように一切の煩悩は無明によっおこる前後無量の差別が在るのじゃ。
ただ如来だけがよく知ることが出来るのじゃ。
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