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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
38
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/05(土) 21:17:35 ID:Dp/qMVVc0
質問2
第2の質問:世界における生の放棄について、あなたの考えはどうですか?サニヤスは、求道者になることは、世界を放棄しければできないのでしょうか?
世界とサニヤスの間には競合はない。放棄しなければならないのは世界ではなく、無知だ。世界を放棄することはサニヤスではない。知識、自己認識の知識の覚醒が、サニヤスだ。この覚醒は、世界ではなく、世界への執着の放棄につながる。世界はあるがままの場所に留まるが、私たちは変容していく。私たちの視座が変容する。この変容は非常に基本的なものだ。この覚醒した状態では、何も手放す必要はない。無用なものや余計なものは、木から熟した果実のように自動的に落ちていく。 闇が光の到来で消えるように、知識の夜明けには不純物が去り、その後に残るのがサニヤスだ。
サニヤスは世界とは何の関係もない。それは自己と関係がある。それは自己の浄化だ。それはまさに合金化した金の浄化のようなものだ。
自己無知の立場から生を見ることは、輪廻、世俗であり、自己認識の立場から生を見ることは、サニヤスだ。それゆえに、誰かが私にサニヤスを「取った」と言う時はいつでも、私には偽りのように思える。サニヤスを「取った」というのは、世界と敵対する行為のような印象を与える。サニヤスは取ることのできるものなのだろうか? 知識を「取った」と言えるのだろうか? そして、そのように取られた知識は、本物の価値があるのだろうか? 取られたサニヤスは本当のサニヤスではない。真実の仮面を被ることはできない。真実は目覚めなければならない。
サニヤスは生まれる。それは知識によってもたらされる。そして、その知識の中で私たちは変容していく。知識が変容すると、私たちの視座が変わり、行動は自動的に変容する。世界はその場に留まり、徐々に私たちの中にサニヤスが生まれてくるのだ。サニヤスとは、「私は肉体ではない」という知識であり、「私は魂である」という知識だ。この知識が芽生えると、無知や執着が離れていく。世界は外にあったし、これからもそこにあり続けるだろう。しかし、内側にはそれに対する執着がなくなる。言い換えれば、内側には世界も輪廻もないということだ。
外の世界に執着しようとするのは無知であり、それを放棄しようとするのも無知だ。世界に執着することも、世界への嫌悪感も、どちらも無知だ。どちらも世界との関係なのだ。この関係がないことが自由、執着と嫌悪からの自由だ。忌避や嫌悪だけではない。この愛着と嫌悪の不在を私はサニヤスと呼ぶ。
―
科学に関して、ありがとうございました。質問に自我が出ていました。科学者も慈悲を持ち、自分の心を外の世界と同様に観察するということでしょうか。
今日の文で、オショーは知識について述べています。この知識は一般的な、記憶できて伝達できる知識とは別のものだと思うのですが、鬼和尚の言う観察によって得られる「気づき」と同じようなものと捉えて良いのでしょうか?
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